2017年5月4日木曜日

〇5-4(木)早朝六時出立。夕暮れ・日本海に沈む夕陽を見ながら道の駅あつみに這入り込む。今日は一日波乱万丈だった。

〇朝六時「道の駅厳美渓」を立って一旦一関に戻りそこから芭蕉が辿った羽前上街道にできるだけ沿ったルートを選んで岩出山(現大崎市)まで走り(上街道は廃道になっている、復元努力が一部でなされている)(道中で見た・白雪に輝く栗駒山は美しかった)、そこからは芭蕉が歩いた道筋を、鳴子・封人(ほうじん)の家・ナタギリ峠・尾花沢とほぼその通りに辿った。今日の眼目の・芭蕉がその足で越えたナタギリ峠に(一本刀を腰にぶち込んだ屈強な若者の護衛付で)この足で立つことをいよいよ実現する日が来た。ナタギリ峠越えの道は現在三ルートになっている。峠の真下をトンネルであっさり通過するルート。トンネルの上を一車線車道で七曲的に上り下りするルート。そしてクネクネ車線の峠付近で下りて・芭蕉の歩いた真の峠に立つことに挑戦するコース。真の峠には地蔵堂と子持ち杉が待っている。宮城県最上町側からトンネル手前のクネクネ車線の登り口に達すると、ナント・冬季乗り入れ規制がかかったまま。実際雪の巨魁で道が塞がれ通れない。失意のどん底。いずれまたナタギリ峠を訪れるしかないと覚悟を決めた。トンネルを潜って山形県尾花沢側に出ると、ナントこちらのクネクネ車線の入口に規制はかかってない。神も仏もあるものよとハリアーを駆って峠を目指す。車道的峠まで無事着いた。峠から十メートル下った最上側には律儀に乗り入れ規制がなされている。真の峠に至る人道は今も辛うじて保存されている。思ったよりも楽に峠に立てた。子持ち杉の老樹も地蔵堂も写真通りの姿で立っていた。芭蕉と曾良もこの杉と御堂を見て、そうして峠を下りて行った。感銘。
〇午前九時、新庄市の「鳥越八幡神社」重文拝殿と本殿を探訪に北上する。多少遠かったが無事に逢えた。田舎の八幡社と思えない立派な拝殿と本殿。
〇とんぼ返りに南下して鶴岡市に向かう。
先ず「水上八幡神社」重文本殿を探訪。参道入口が貧相で発見できず村人に聞いて回る。本殿は茅葺の三間社で堂々たるもの。
〇次に訪ねた「金峰(きんぽう)神社」が酷かった。標高500mの山頂に重文本殿(奥の院)があるというので中の宮から登山に挑んだ。それが想像を絶する凄惨な登山。大石・大岩がゴロゴロ折り重なった・雨に削られた細道・急峻道を登り続ける。果てしなく登る。ボクは三回ほど死んだ。遂に頂上の御堂を見た時、ボクの足は力を失っておりやっとこさそこまで這って行った。肝腎の奥の院の本殿、これが重文だと思えばそれなりでそう思えるが、そうかなぁと思えばそうも思える。何せ保存状態が悪い。重文ならこんな保存の仕方は許されるだろうか。ボクの直感では、神社側は重文であることを持て余している。この山頂の重文本殿を護持しようとすればそれはそれは悶絶するほど大変なことで、出来たら重文であることを返上したいぐらいに思っているのではないか。実際山頂には重要文化財の標識は全然なかった。どころか神社側の案内図にも説明文にも重文の文字は一切ない。不審なので下山してnet検索すると確かに本殿は重文指定されている。苦労したのに何かスッキリしない。あの本殿は本当に重文なのかッ。重文でなかったら、ボクは許さないゾッ。金峰神社は明治維新までは典型的な修験道の山だった。神仏分離で神髄を失わされた。それにしても「別表神社」であるのは意外。
〇山を下りて気力を振り絞って大山宿に芭蕉の一宿の地の探訪に赴いた。結論はほぼ一宿の地の特定に成功したと思うのだが、この説明にはくどくどと気力を要するが、今日はもう気力がない。キーワードは、大山三丁目・富士酒造・勝安寺、そして「丸や義左衛門」。
〇今夜の宿泊地は「道の駅あつみ」。日本海の水平線に沈んで行く夕陽が見事だった。明日も天気が好いだろう。明日は早朝に多少逆戻りして、由良・三瀬(さんぜ)・小波渡(こばと)・大波渡(鬼のかけ橋)などを見分する。曾良の随行日記にメモがある。後は新潟県に入ってひたすら西行する。連休中の車の出は尋常でない、侮れない。

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