2017年5月3日水曜日

〇5-3(水)暑い日。今日も所期の目的はほぼ遂げた。が、午後七時・道の駅厳美渓に辿り着いた時は疲れ切っていた。

今朝七時・道の駅むらたを出立。探訪地を順番に列挙。
1、仙台の北郊外の「東光寺」。門前に奥の細道の石碑を置いている。その近くに「十符(とふ)の菅(すげ)」という特産品を産した小地域があり、またそこを通る奥州街道は幅が狭くて有名だったらしい。人呼んで「奥の細道」。本当に細いから細道と呼ばれた。その「奥の細道」の言葉のイメージが芭蕉には至極気に入ったらしく、陸奥の紀行文のタイトルに戴いてしまった。とにかく「十符の菅」を産する所は芭蕉『奥の細道』の成立に関わる重要性を持つ。ボクは必死で訪ね歩いた。すると「清風荘」というアパートの門に「十符の菅」と芭蕉に関する記事案内がぶら下げてあった。このオーナーは奥の細道「十符の菅」の段がこの辺りの事績らしいことを自覚している。清風荘から小谷になった坂が山の中に延びている。どうやらこの小谷が菅を栽培していた感じ。小谷の片側には民家が連なっているが直ぐに尽きて畑の小地域が出現して終わる。最奥の民家の親父さんが出てきたので「十符の菅」を訪ねてくる人がいるかと問うと、いるそう。そして坂の途中の青い屋根の家を指して、あの家の辺りで十符の菅を植えていたそうとまで話した。話が出来過ぎてきたので青い屋根の家の写真を撮って戻って来た。ハリアーは谷の入口に停めておいた。奥に行って回転できないと困るので。十符の菅の探訪は成果ありッ。
2、塩竈に行き、芭蕉が塩竈神社に参詣して一宿した地点を探した。裏参道の登り口と聞いていたので、今車で登る参道が裏参道だと思い込んでいたが、土地のお爺さんに訊いたら違っていた。車道は論外で、表参道は西に在って直に200段の石段を昇る。中間にあるのが七曲の参道。裏参道は東参道のことで神社の別当寺の法蓮寺があった。芭蕉が一宿したのはこの東参道のことで登り口に芭蕉の事績が碑にされているそう。行って見るとその通り。溜飲が下がった。芭蕉船出の地も市街地のど真ん中にあるのを発見。
3、松島に行き「西行戻しの松」に逢った。展望も好かった。
4、瑞巌寺に行こうとしたら大渋滞。駐車場に入るのを諦めて、門前の芭蕉一宿の宿とオーナーが主張し、曾良の日記にも門前の宿に泊まったとメモしてあるのでその主張を受け容れようと考えている旅館店舗の四階建てビルの写真を撮って素通りした。以前見た時はビルの二階のガラス窓にデカデカと「芭蕉一宿の宿」と貼り紙してあったが、大震災と津波の傷がいえないと見えて未だビル全体が工事シートに覆われていて何も見えなかった。
瑞巌寺は素通り。修復が終わったと聞いていたが仕方がない。
5、石巻グランドホテルを訪ね、その片隅に置いてあるという芭蕉一宿の石碑と対面。
6、登米でお婆さんに教わって、北上川の土手の上に立つ芭蕉一宿の地の石碑と案内板に面会が成る。登米(とよま)大橋の袂。道の駅(遠山の里)が出来たと聞いて寄って見ると、隣接して「登米尋常高等小学校」が重要文化財に指定されて有料で公開されていた。見学に値した。
7、平泉に直行して、藤原秀衡の三男が籠った「泉が城」を探訪。父秀衡の死後・頼朝を恐れた長男と次男は義経主従を襲って殺したが、三男は義経襲撃に加勢しようとせず城に籠った。結果、長男二男に攻め殺された。芭蕉はこのような悲劇性のある人物を好む。曾良のメモにある通り芭蕉は衣川・泉ヶ城を訪れたとみて探訪してきた。この探訪は難しかった。衣川が人工的に大改修されている。それでも最後は土地の人に教えられて・本流と、それから分岐して堀の様になって流れている支流(また本流と合流する)に中州の様に囲まれている城跡に立つことができた。広大な城跡だった。
〇夕暮れ時、道の駅に入ろうとして「道の駅平泉」が出来ていることを知って探してみたが分らないので、何度も泊まっている「道の駅厳鼻渓」に来てしまった。午後七時到着。明日は芭蕉が本当に越えた「ナタギリ峠」の頂上を目指す。

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