2017年3月21日火曜日

〇3.20(月・春分の日)七尾市中島町「久麻加夫都阿良加志比古神社」。古代朝鮮の影が濃い

 ↓「久麻加夫都阿良加志比古神社」
久麻加夫都阿良加志比古神社は「くまかぶとあらかしひこ・じんじゃ」と読む。語感からして和名でない。「くま」は「こま」の転訛で「高麗(こま)」の意味だろう。「かぶと」は兜・甲か。イメージは、高麗の兜を冠った勇士。「あらかし」は古代朝鮮の王族の敬称という説が有力。「ひこ」は男神を表す。この神社は熊木川の谷合に立地するが、熊木(くまき)は高麗来(こまき)の転訛で、高麗から来たの意味。
祭神は阿良加志比古神だが、この神名で思い当たるのは、敦賀市に鎮座する気比神宮の摂社「角鹿(つぬが)神社」の祭神。その名は「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)命」。「つぬが」は転じて「つるが」となる。即ち「敦賀」。「あらしと」は任那の王族の名だという。「あら」は敬称の接頭辞ではないか。敦賀に上陸した古代朝鮮王族の子孫が更に海を渡って能登半島を一周して熊木川の谷筋に住み着いたのではないか。
↓気比神宮
↓「角鹿(つぬが)神社」
 ↓「式内・摂社 角鹿神社」
 ↓角鹿神社拝殿
 ↓「角鹿神社 気比神宮の摂社・式内社。祭神は都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)。崇神天皇の御代、任那の皇子の都怒我阿羅斯等が気比の浦に上陸し貢物を奉る。天皇は気比大神宮の司祭と当国の政治を任せられる。その政所の跡にこの命を祀った。その命の居館の跡が舞崎区であり同区の氏神が当神社である。現在の敦賀の元の地名は「角鹿(つぬが)」でこの御名に因る。‥」
↓久麻加夫都阿良加志比古神社の境内。中央拝殿の右側に校倉・薬師社が見える。
 ↓拝殿
 ↓右から幣殿・本殿。本殿は周囲を囲われている。
 ↓右から本殿、幣殿、拝殿
 ↓大杉
 〇「能登国の歌三首」 万葉集・巻16
〇「はしたての 熊来のやらに 新羅斧 おとしいれ ワシ かけてかけて な泣かしそね 浮き出づるやと見む ワシ」
〇「はしたての 熊来酒屋に まぬらる奴(やっこ) ワシ 誘いたて ゐて来なましを まぬらる奴 ワシ」
〇「香島ねの 机の島の 小螺(しただみ)を い拾い持ち来て 石以ち つつき破り 早川に 洗いすすぎ 辛塩に ここと揉み 高坏に盛り 机に立てて 母に奉りつや めづらの刀自 父に献りつや みめこの刀自」
 ↓この神社の「お熊甲祭・枠旗祭」
↓猿田彦が先導して踊る。この被り物・衣装も古代朝鮮風俗。

 ↓境内拝殿前にスタンドがコンクリートで設営されている。祭りの見物用だろう。
↓神饌所、多分
 ↓校倉、宝蔵
↓この神社の宝物一覧。重文・久麻加夫都阿良加志比古神坐像は異国(朝鮮)の神に見えるらしい。
↓薬師社。普通は薬師堂だが、明治維新の時の神仏分離の嵐の中で改めたものだろう。屋根に千木・鰹木が置かれてすっかり神社様式。

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