2017年5月27日土曜日

〇2017-5-27(土)旅に出た。目指すは和歌山県中部(海南市・有田市)

朝九時過ぎ七尾を発った。京滋バイパスで奈良県に入り、京奈和道の供用部分を伝って紀の川沿いの五條市から橋本市に入った。午後五時前のこと。橋本市で利生護国寺(りしょうごこくじ)の重文本堂を拝観した。時に午後五時半、夕暮れまで時間があるので五條市に戻り西吉野「向加名生}(この地名が読めない)の重文春日神社を再訪することに。前回は夕暮れて真っ暗闇の探訪となって残念だった。前回は五條ICから向かい(南下)、今回は橋本市街から向かったので(東進)90度道の方向感覚がずれて吉野に向かうはずが大和高田に向かっていた。気が付いて修正するのに30分以上を要した。前回の轍を踏みまたも暗闇下の探訪かと少々がっくりきたが、日が長くなっていて助かった。春日神社の鎮座する小山を下りて来た時は未だ明るかった。陽の下で写真を存分に撮った。ガソリンを満タンにし、コンビニで弁当を買って、今回も宿泊は道の駅紀の川万葉の里になった。というよりも決まっていたようなもの。この道の駅は実に重宝な位置にある。雰囲気も好い。明日は和歌山県海南市、有田市辺りの重文建造物を探訪する。楽しみな神社・寺院が結構ある。有田川町にまで足を伸ばすとここには何と七件の重文がある。しかしこちらは次回に回すしかない。とにかく行きはよいよい帰りは怖い、なのだ。明日はどれだけ早朝に出発できるかどうかの勝負。白状するが今回の旅は初めから大失敗。食後の飲み薬を用意したのに忘れてきた。血液サラサラ薬を飲まずとも(血栓ができずに)明日の晩七尾に無事に戻っておれたらいいなぁ。別に心配してないんやけど。

2017年5月26日金曜日

〇5-1(月)栃木県日光市と塩谷町に「日光北街道」を辿る

〇芭蕉と曾良は今市宿の亭主仏五座衛門の説に従い、那須黒羽に行く道を次のようにとる。
日光山の麓を辿り(日光街道の北側、大谷川(だいやがわ)の北岸)、瀬尾(せのお)で会津西街道に入って北上する。小室という村で道を東にとり(会津西街道と別れ)、大渡(おおわたり)の仮橋で絹川(鬼怒川)を渡る。大渡からは日光北街道。それを西へ西へと進む。船入(現在の船生か)を経て玉生(たまにゅう)に至り、さらに矢板まで行くと奥州街道に合流する。
〇前回は小室を発見できず会津西街道を北上し続けて鬼怒川温泉まで行ってしまった。
↓今回は会津西街道と別れることができて何とか大渡に辿り着けた。手前の道は小室から来る道。鬼怒川・大渡の渡し場は右側を下って行く。
 ↑↓大渡(おおわたり)の交差点
 ↓鬼怒川・大渡の渡し場に架かっている大橋
 ↓大橋の袂に、昔からあったような風情の茅葺屋がある

 ↓大橋が架かる前の名残の遺跡を発見。バス停だが、よく見ると、
 ↓日光市役所を発って、大渡が終点となっている。大橋が無かったからだと思われる。

 ↑↓「立入禁止・駐車禁止」の措置は何故とられているか。ここがバスの回転場だったから
 〇日光北街道は今も残っている。しかし国道461号船生(ふなにゅう)バイパスが完成して在所の人にしか利用されていない。漫然と走っていてはその入口を発見できない。
↓旧日光北街道を船生から東進して来ると.玉生(たまにゅう)の在所に着く。ここが旧日光北街道玉生宿

〇日光から玉生宿まで、芭蕉と曾良が歩いた道を遂に辿れた。執念

〇5-1(月)栃木県壬生町「伝・金売吉次の墓」

〇《曾良随行日記》のメモに、鹿沼宿を目指す途中に「金売吉次の墓」に立ち寄った記述がある。前回の奥の細道紀行ではこの墓を発見できなかった。道筋を違えたらしい。いつかきっとリベンジしようと思っていたが、今回遂にその思いを遂げた。
↓事前に蒐集した情報によると、墓は、国道と県道の交差点に立地するコンビニ7&11の傍に在る。そのコンビニがあった。手前の道が国道
 ↓交差点は、壬生町上稲葉
 ↓コンビニ7&11の白い塀に沿って農道が続き、その途中に小さなお堂らしきものが見える。金売吉次の墓だと直感




 ↓伝・金売吉次の墓。芭蕉と曾良は350年前にここを探訪した
 ↓説明板の文字は薄くなって読み取れない。
 「金売り吉次の墓(伝説)」吉次が病に倒れてこの地で死んだのをここに葬ったという趣旨が認められている
〇この後、道は楡木から例幣使街道の松並木を通って日光今市に続く

2017年5月25日木曜日

〇5-1(月)栃木県日光市「憾満ヶ淵(かんまんがふち)から大日堂跡」へ。芭蕉と曾良が歩いた道

〇GW期間中の日光市街地に駐車するのは至難。ボクは秘密の駐車基地を知っている。基地から憾満ヶ淵に向けて出発。
↓昔この辺りは慈雲寺の境内だったらしい。
 ↓慈雲寺山門

 ↓これが現在の慈雲寺本堂。昔の堂宇は大谷(だいや)川の氾濫ですべて流されたそう
 ↓本堂右手に大谷川の憾満ヶ淵が音を立てて流れる。芭蕉と曾良は日光を発つ日の午前中「裏見の滝」とこの「憾満ヶ淵」を探訪して那須方面に向かった。《奥の細道》と《曾良随行日記》を照らし合わせると、二人は滝と淵の中間に在る「大日堂」にも必ずや立ち寄っている。この確信が、今回の旅でボクに日光行きを決意させた。既にボクは滝と淵を探訪している。ただ大日堂跡だけは探訪に失敗した。芭蕉と曾良が訪ねた地とあらば、何としてでも到達せねばならぬというのがボクの気持。
 ↓並び地蔵の列が始まる
 ↓地蔵の向かいに憾満ヶ淵

 ↓この堂に石仏が坐っていた。今は流されて礎石だけが残っている

 ↓並び地蔵
 ↓大日橋の案内が見えた
 ↓とうとう大日橋に着いた


 ↓大谷川。「だいやがわ」と読む
 ↓橋上から大日堂跡が見える
 ↓庭園跡も見える

 ↓大日堂跡



 ↓旧大日堂の写真
 ↓松尾芭蕉句碑
 ↓右の丸い石がそう。
 ↓芭蕉句碑。字面が消えて読み取れない
 ↓句碑の右に、大日堂の石燈籠の土台が残っている
  ↓大日橋を望む
 ↓大日堂跡

  
〇遂に大日堂跡を探訪した。執念勝ち

2017年5月24日水曜日

〇4-30(日)千葉県市原市「飯香岡(いいがおか)八幡宮」重文本殿

〇市川市・法華経寺から市原市・飯香岡八幡宮に着いた。「いいがおか」と読む。いかにもゆかしげな名前。国府総社


↓拝殿。千葉県指定文化財
↓左・拝殿、右奥・重文本殿

↓重文・本殿。室町時代中期(15世紀)頃の建立。足利義政の寄進との伝承がある。

↓夫婦銀杏。千葉県指定天然記念物
↓「逆さ銀杏」。石橋山の旗揚げで敗れ房総半島に逃げてきた源頼朝が源氏再興を祈願して逆さにして植えたら根付いたという伝説があるそう。樹齢が合わない気がするが(代替わりしたということか)。

↓神楽殿