2016年11月29日火曜日

〇11.24(木)初孫《咲穂ちゃん》お宮参り、金沢東茶屋街奥「宇多須神社」

〇この日、天気予報では完璧に雨。それが、何と晴れ。関東地方は雪の異常天気。咲穂ちゃんの幸先好し。
↓東茶屋街入口
↓東茶屋街
↓茶屋街の奥に宇多須神社がある。




↓拝殿の縁の下に忍者、発見
此処にも発見
↓社務所の写真。宇多須神社は東の芸妓衆の崇敬を受けている。金沢の芸妓の居る茶屋街は、東・主計(かぞえ)町・西の三箇所。


↓咲穂ちゃんの乗るフォルクスワーゲン新車が登場
眠っている
↓父方のおばあちゃんが咲穂ちゃんを抱いて頬を緩ませる。
↓拝殿にて




↓拝殿の赤絨毯の上に寝かせられた咲穂ちゃん。ここまで目を開ける気配なし。


↓遂に目を開けた
↓写真が逆さま










↓お雇い写真屋さんに求められたポーズ
〇この後、博労町の壽屋に行き会食。

2016年11月28日月曜日

〇11.19(土)初孫《咲穂ちゃん》母(次女)の実家(七尾)に里帰り。瞬く間に一週間が経ち今日は金沢にご帰還

〇次女が初孫を抱いて月曜日に里帰りしてから6日目。今日(土)ご帰還。
↓朝を迎えた
9.26に予定よりも2週間早く生まれた。2.6kg。それが2カ月足らずで5kgになった。すくすく育っている。



 ↓おばあちゃん。
 ↓目が合った
 ↓迎えに来たパパさん
 ↓車でご帰還。またねぇ~

2016年11月25日金曜日

〇11-25(金)投稿の筆先が鈍りっぱなし。その理由は‥‥

〇このひと月近く、投稿を怠っている。その理由を列挙すると、
①セレナ君が絶命して旅に出る脚を失った。それで写真が撮れない。最近後釜に中古のハリアーが内定した。目下手続き中。みばやし眼科から次女に下げ渡された、そのお古を今度ボクが下げ渡しを受ける。免許証返還が問題とされる年齢に入り込んだボクには分相応か。従前の様に野宿しながら自由気儘に全国到る所に出没するという訳には多分いかない。
②70肩(病名としては50肩というらしい)の激痛にこのひと月近く苦しめられている。夜も寝れない。脳が四六時激痛に痛められて弱っている。ボクの精神も肉体も衰弱している。パソコンに向かっても左肩の痛みが激しくて左腕・左手を動かせない。データの入力ができない。この激痛がいつとれるか、見込みがない。過去に右肩一回、左肩二回既に50肩を経験しているが、激痛期間は早く回復して数カ月、遅い時は一年余もかかった。老化による肩の骨・関節の消耗・歪みが原因だそうだから70歳になった現在いつ回復するか分らない。医者も分るまい。ので医者にかからない。
③叙勲を受け皇居で天皇陛下に拝謁するためモーニングを着なければならないことになったが、モーニングは30歳の時の体型に合わせて・亡き小松のおじいちゃん(妻の父)が作ってくれたものだったが、着用してみると全然合わない。肥り過ぎ。ボクは小松のおじいちゃんに色々恩義があるのでせめてそのモーニングを着ておじいちゃんと一緒に皇居に参内することを決意してダイエットに入った。小松のおじいちゃんは、天皇陛下に拝謁できることを人一倍喜んでくれるタイプの人だった。ダイエット期限はひと月。70kgから始めて63kgまで落とす必要があったが、最悪でも65kgを切らねばならなかった。up downを繰り返して11月10日に上京したときは65kg弱。辛うじて体型を小松のおじいちゃんのモーニングに収めた。気力を浪費し体力を消耗した。女房は貸衣装にしたらと横から言っていた。
〇以上がブログをサボるようになった主な理由かな。そのうちまた気を入れて投稿しようと思っていますのでこれからもよろしくです。

2016年11月17日木曜日

〇2012.3.31(土)奈良県宇陀市「惣社水分(そうじゃみくまり)神社」

〇宇陀市「惣社水分神社」を探訪したのは4年半前のこと。
この時の探訪記は→http://takashikun.blogspot.jp/2012/03/blog-post_7062.html
「宇太水分神社」探訪記は→http://takashikun.blogspot.jp/2012/03/blog-post_6738.html
↓国宝・宇太水分神社から数キロメートル離れた在所に惣社水分神社がある。






 ↓右・拝殿、左・神饌所
 拝殿
 ↓本殿を見る




 ↓宝物庫
 ↓神輿庫
↓惣社水分神社の重文神輿が宇太水分神社まで渡御してきたところ。


 ↑↓重要文化財の神輿 南北朝の頃に建造されたもので今から600年前のもの。保存がよく建造当初の姿をよく残しており、鳳凰も当初のもので全国にその類をみない鳳レンみこしである。鳳レン神輿とは、屋形の上に鳳凰を付けた御輿で、天皇の乗物の美称。秋祭り(10月21日)の「御渡り」には、このみこしを中心として時代行列を整え、古市場に鎮座する宇太水分神社へ渡る。古式豊かな祭礼の行列が延々と続く情景は、正に優雅な豪華絵巻を見る想いであり、近郷近在屈指のお祭りである。

2016年11月16日水曜日

〇2016-11-10(木)東叡山寛永寺「根本中堂」

〇将軍家霊廟・谷中墓地入口近くに根本中堂があった。根本中堂とは本堂の謂いで、延暦寺の本堂を根本中堂と云うのと同じ。共に天台宗。東叡山とは東の比叡山の謂い。
↓「東叡山・寛永寺」
 徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜が朝敵とされてひたすら謹慎恭順の意を体して引き籠ったのは、ここ寛永寺だった。
 ↓根本中堂・本堂
 ↓本堂側面
 ↓右から鐘楼、虫塚、上野戦争碑記
 ↓「上野戦争碑記」
 ↓本堂境内の案内図。東京芸大の構内に釈迦堂(大黒天)があることになっている。上野動物園内に五重塔が取り残されたようなものかと、最後の探訪に赴くことに。
 ↓東京芸大音楽学部。門衛に訊いても、大黒天のことは聞いたことがないそう。
 ↓通りを挟んだ美術学部の門衛も、聞いたことがないという。
 どちらの門衛も口を揃えるようでは芸大構内に釈迦堂(大黒天)はないのだろう。念のため東京芸大構内図を当ってみたが、両学部のどこにも表示がない。
 ↓根本中堂内で300円で購入したパンフの山内図を見ると、左側中央に東京芸大美術学部があり、その構内の左下に確かに「護国院(釈迦堂)」がある。どうやら釈迦堂は芸大構内に隣接しているが構外にあるらしい。「護国院」は寛永寺の子院だという。塔頭寺院とは別ものか。寛永寺所属の伽藍と言っていいのか。もっとも建物は江戸時代から明治時代まで移転を重ねまた焼失して現在のものは明治以降の建造らしい。ここは探訪せずに済ましてよいか。それならボクの寛永寺探訪は満願となる。

〇因みに信州浅間山・鬼の押出の中に建つ「浅間山観音堂」も寛永寺別院。

ここは二度探訪済み。