2016年10月4日火曜日

〇《奥の細道紀行》9-18(日)大垣市船町正覚寺「芭蕉木因遺跡」

〇ここが正覚寺の入口。そうは見えない。が、「史蹟・芭蕉木因遺跡」の石碑がある
〇この路地に入って芭蕉木因遺跡を探索していたら災難が襲ってきた リンク→http://takashikun.blogspot.jp/2016/09/blog-post_20.html


↓「当境有芭蕉翁碑」
↓「芭蕉・木因遺跡 俳友谷木因と数多くの門人が大垣に居たため、俳聖松尾芭蕉の美濃来遊は四回ありました。木因は、名を正保、九太夫、号を木因と称しました。船町の船問屋の家に生まれ、北村季吟の門に入って俳諧を学びました。芭蕉とは同門であったので壮年から交わりが深く、貞享、元禄年間に大垣俳人の先駆をなしました。元禄七年(1694)芭蕉が大坂で病没すると、芭蕉の門人であった近藤如行らは、船町正覚寺に芭蕉の百ヵ日忌を記念して芭蕉塚を築き、追悼の意を表しました。その後、同寺には谷木因の墓をはじめ、美濃派歴代宗匠の句碑などが建立されました」
↓芭蕉・木因遺跡。左端に木因の墓がある。中央やや右側に芭蕉翁碑がある。
↓遺跡の向かいに建つ本堂
↓「俳聖松尾芭蕉の大垣来遊(4回)は、俳友谷木因(たにぼくいん)をはじめとした大垣俳人を訪ねてのことである。木因は芭蕉と同門で北村季吟から俳諧を学んだ。そのため、芭蕉との親交が深く、大垣藩士近藤如行(じょこう)ら多くの俳人を芭蕉門下とした。元禄7年(1694)芭蕉が大阪にて病没すると如行らはこれを深く悼み、正覚寺に路通筆「芭蕉翁」追悼碑を建てた。さらに、木因の死後芭蕉と木因の親交を偲び、木因碑を建て「芭蕉・木因遺跡」とした」
↓木因墓


↓中央に芭蕉翁碑
↓「芭蕉翁」碑


↓以下、門人の句碑
↑↓「安永五歳」建立











↑↓「寛政十二」建立




↑↓「安政六年」建立
その他は明治以降の建立
↓本堂から見た遺跡

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