2016年7月27日水曜日

〇《奥の細道紀行》2016.7.17(日) 村上市北端奥山・旧出羽街道の要衝「小俣宿」、日本国の麓

〇小俣宿は出羽国と越後国の境界線に接し、江戸時中期までは村上藩と庄内藩との藩境であった事から重要視され、当初は村上藩の番所が設けられた。戊辰戦争の際は激戦地の1つとなり、小俣宿の多くの民家が焼失した。現在の町並みはその後に再建された明治時代の建物とされ落ち着いた古民家が軒を連ねている。小俣宿から程近く新潟県と山形県の県境には「日本国」と呼ばれる標高555mの低山があり、その名前の目出度さから登山人気が根強い。名前の由来は諸説あるがその一説を紹介すると、この山で捕まえた鷹を将軍に献上したところ、余りにも見事な鷹だった事から将軍が日本一の鷹と褒め称えた。それで鷹を産出した山が日本国と呼ばれるようになった。
↓「ここから小俣宿」、「→小俣宿」「←府屋(日本海に出る)」
↓郵便局の入口に「日本国麓郵便局」と書かれている
↓小俣宿総代(村の庄屋みたいな家柄だろう)の家






↓以下、家々は屋号・家紋付が表示されている






↓「村上藩小俣口留番所跡」
























↓新道から旧道らしき道が分岐している。これぞ旧出羽街道そのものだろう。




↓バスは、右が府屋行き、左が雷(いかづち)行き。府屋に行くと日本海に出るので、ボクは更に山中・旧出羽街道を求めて行くことにした、が‥‥
山側の道を暫く辿ると丁字路になる。直進すると大代・雷、左折すると白山神社・粟津?。左折路はやや細く未舗装。ボクは直進した。大代、雷集落を経て雷(いかづち)峠(大型車通行不可)を越えて小名部を経て鼠ヶ関に出た。この道は旧出羽街道ではなかった、多分。旧出羽街道は細く未舗装の白山神社行の道だったろうか。白山神社には「白山神社の老杉」という樹齢1200年の大杉が天高く聳えていたそう。見損なって残念。が、この道も旧出羽街道ではなかったろう。ここで疑問を晴らすためgoogle mapで研究。鶴岡から国道345号線が南下する。これぞ旧出羽街道だろう。これが木野俣を経て関川まで南下する。関川で西進して345号線は日本海に出る。関川で南下する県道52号線がある。これぞ旧出羽街道だろう。52号線は南下を続けた後西進して小俣宿に至る。小俣から南下する旧出羽街道は今回の旅行で辿り切って村上まで繋がった。不明未踏の大沢峠・葡萄峠も探究した。これで旧出羽街道は、ボクの脳裏の地図帳では鶴岡から村上まで完結した。
〇推測だが、芭蕉は温海で曾良と別れて日本海沿いに鼠ヶ関を探訪した。その先のルートは、府屋から山に入り小俣まで来た。そして小俣から旧出羽街道を辿って中村(北中)宿に着いた。一方曾良の方は温海から山に入り温海温泉で湯をつかって山中ルートを辿って小俣宿に着き、その後は芭蕉と同じ旧出羽街道を辿って中村宿で芭蕉と落ち合った。この推測は多分当っている。

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