2016年5月7日土曜日

〇土手に今年もアヤメが咲いた。そして毛虫が湧いて茎のてっぺんに登って多分羽化の準備中。やがて蝶に大変身する不思議さに心を動かされて、進化論まで考えてみた。

〇鷹合川の土手を歩いていたら目につきました。
〇何いか、これ、気持悪い。止めてまぁ。確かにこれは毛虫です。見ただけで嫌われる、嫌われモノの最たるものです。はっきり言ってこのモノたちは、徹底的に嫌われるためにこのような醜い不気味な姿をしているのです。これが進化論の説明でしょう。但しそれは、無防備・無力な幼虫時代だけのことです。これからサナギになり、そして羽化して蝶となって飛び立ちます。蝶となるのは生殖のため、即ち子孫を残すためです。蝶の時代は生殖相手に見つけてもらうためできるだけ目立たなければなりません。毛虫即ち幼虫の時代はとにかく無事に成長することに特化され、蝶の時代はとにかく生殖相手と遭遇できるように特化されていると、進化論的には説明できるでしょう。
 ↑写真をよーく観察して下さい。手前の大きなヤツはいいです。奥に小さく茎登りをした毛虫が二匹見えます。見えなくても、います。このモノ達は無事を一途にこんな姿で生き延びてきたのに、どうして今になってこんなに目立つ茎登りに挑戦して動こうとしないのか。それは多分サナギになるためです。サナギとは不思議な状態です。毛虫からいきなり蝶に変身する。この信じ難い・奇蹟的な変身を可能にするのが、サナギです。サナギ時代に何が起こるのか。まず動かなくなる。これは形・大きさを決めてかかるためでしょう。内側で何が起きているのか。それは、凄まじい変動・変質です。細胞段階で見ると、ある部位の細胞は進んで自殺して形を変える要因を成すと共に生き延びて増殖する細胞たちの栄養源となる。ある部位の細胞達は増殖を重ねて個体の形を変容させていく。分子レベルで見れば、サナギの内部では凄まじい分子運動が展開されている。そのためのエネルギーとして太陽エネルギーが必要なので空に向い、動かぬうちに腐らされないように大地から離れる。サナギこそ、大変身に必要不可欠な条件の塊なのだ。と進化論的には多分説明されて、蝶と云うか・毛虫と云うか、この不思議な大変身を遂げる生物の一生が進化論的に首尾一貫して説明されるんじゃないかなぁ。進化論とは何とも便利な天下無敵の説明道具。道具と云うより武器だな。しかし進化論の大前提は、すべての変化は全く偶然に起きるもので必然と云うことはないというのだから、偶然のとてつもなく永い積み重ねの結果、生物界は変わるべくして変わったし(今西錦司はこう称えた)、今後も変わるべくして変わっていく、という方が当っているんじゃないか。進化的変化の基礎は遺伝子の突然変異。突然変異の結果最適条件を備えたと見られるモノでも絶えるモノは絶えるし、最適でないと見られる条件となったモノでもしぶとく生き延びるモノは生き延びる。そもそも最適、最適でない、不適という言葉をキーワードにすることが既に怪しい。すべてが全くの偶然で生ずるという進化論的大前提と根本的に整合しない。最適でないと生き延びられないという考え方は既に「必然性」と云う罠に嵌っている。何事も単なる全くの偶然、徹底的に偶然。この世は無常。
〇今年も畑にアヤメが咲いた。アヤメとカキツバタ・花菖蒲の見分け方は毎年説いている。アヤメは花弁の付け根に「文目(あやめ)」模様がある。毛虫の後に綺麗なアヤメの絵を持ってきたのは単なる偶然です。


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