2016年4月30日土曜日

〇流浪の旅・探訪第一日。伊丹市「有岡城」、尼崎市「尼崎城・本興寺・長遠寺」、西宮市「神呪寺(かんのうじ)」、神戸市「石峯寺(しゃくぶじ)」

朝、桂川SA出発が08:00。神戸市「道の駅・淡河(おうが)」到着17:00前。神呪寺、石峯寺は山奥深くに在り石段のup/downが相当なもん。それにしても西宮市、神戸市と云うとみんな都市を想定するが、とんでもない奥山を広大に抱え込んでいる。
伊丹大阪国際空港には驚かされる。空港のど真ん中真下をトンネルで幹線自動車道が突っ切っている。有岡城は今の地番で云うと伊丹1丁目にあった。街のど真ん中。というか、いわゆる惣構えという構造で、侍町・城下町を町ぐるみ堀と土塀で囲んだ。南北1700m、東西800mという広大な規模。駐車場のおじさんが「猪名野(いなの)神社」に行ってみなというのでテクテク行くと、そこは惣構えの北端の砦だった。河岸段丘を利用して堀を掘り、土を土塀にした跡らしきものが残っている。黒田官兵衛の家臣が有岡城に潜入して官兵衛と会っていた話は有名だが、惣構え構造の広大長大な城砦は柵があっても塀のない箇所が多くて隙があり弱点を緻密に研究すれば可能だったろう。荒木村重は妻子家族一族郎党を見捨てて有岡城を脱走し、長子の守る尼崎城に入った。それでボクも尼崎城まで辿って行った。距離にして17~18kmか。尼崎城跡はあったが、城の遺構というほどのものではなかった。元々小城だったろう。往時は海に面していたはずだが、今は町のど真ん中にある。村重はこの尼崎城も頼むに足らずと直ぐに見捨てて神戸の花熊城に走り、ここも捨てて最終的には毛利の庇護のもと備後国の鞆の浦に身を寄せる。尼崎市内に重文建造物を複数所有する寺が二つある。本興寺と長遠寺、そこを訪ねた。寺町と称する界隈に在り、他に興味の湧く寺を三つほど訪ねた。その後、西宮の山奥の神呪寺(かんのうじ)を探訪した。ここには重文仏像が四体ある(堂宇伽藍は焼失し再建されたが文化財としての価値は乏しい)。秘仏化されて拝観できないと思って行ったが、聖観音立像だけは見れた(古仏だが、重文としては二級)。他は秘仏。本尊如意輪観音坐像の写真だけは手に入った。この観音像、メディアに載っていて見覚えがある。1200円の葉書大白黒写真。高いと思ったが、ボクは躊躇せずに買う。貴重なのだ。神戸市では二ヶ寺探訪する予定だったが、今日は一ヶ寺に止まった。北区の石峯寺(しゃくぶじ)という真言宗の古刹。修験道と今も結び付いているらしい。ここの本堂、薬師堂(重文)、三重塔(重文)は素晴らしかった。逆光に映える楓の若葉に包まれてそれは美しい。紅葉の季節にはどれだけ美しかろうと想像すると、生涯にもう一度は来よう、紅葉の季節に、と思った。そろそろ宿泊地を決めようとカーナビで探ると道の駅は意外に近くに在った。道の駅・淡河(おうご)。食堂は五時閉店だったが、五時に顔を出した僕に店のおばあちゃんたちがいいよと言ってにしんそばを食べさせてくれた。今夜はこの道の駅で泊る。
明日の探訪は神戸市西区の如意寺という文化財の宝庫のような寺から始める。「櫨谷」という難読地区にある。ハセタニと読む。朝ちょっとした予定変更があった。川西市と云う小さな市に文化財が豊富にある。伊丹からそちらに回る予定をしていたんだが、所在地の資料が見当たらなくて省いた。付箋がはがれて目につかなかったことが分った。帰路で寄ろうと考えているんだが、果たして実現できるものか。
今回の旅の最終目的が決まった。一つは備前玉野の渋川海岸にあるという西行像に会う、二つは備後福山の鞆の浦の粋を訪ね歩く。

2016年4月29日金曜日

〇4/29(金)流浪の旅に出発。現在京都南「桂川SA」

昨夜は裕の家に泊まった。茶を頂き、夕食もよばれた。今日の午前中は裕の家でTVを見ながらダラダラ過ごし、茶を二服戴いてから旅に出た。正午のチャイムを七尾で聞いた。
ここは、京都南ICの南の桂川PA。午後四時半到着。今夜はここに泊まり、明朝伊丹城(有岡城)の探訪から始める。荒木村重が信長に反旗を翻して立て籠もった城。摂津の国の一体何処に在ったのか、歴史的知識はあっても肝腎の城の在り処を知らないままで人生を終えるところだったが、明日何とか生半可状態を解消できる。振り返って見ると、経験・実地の裏付けがなければほとんど用をなさない知識が多い。その中には人生の要をなす知識もある。老衰して記憶力が落ちて人名や事物の名前を忘れていくと、知識を素材に形成してきたこれまでの人生が一体何であったのか疑問に思う。まさに砂上の楼閣。これからは体験を大切にしていこう。
京都東ICと南IC間が渋滞という情報が流された。連休なので渋滞情報は重視すべし。それで今夜は本当は吹田SAで泊るつもりだったんだが、満杯のリスクがあり、はみ出すとその先の宿泊地の手当に困る。ので、一つ手前の桂川PAに入り込んで保険を掛けた。明朝順調なら吹田SAまで10~15分の距離。吹田SAの手前で中國自動車道に入る選択もある。

2016年4月28日木曜日

〇春の連休流浪の旅に出発。行き先は、摂津・播磨の文化財探訪を手始めに山陽道を西へ行く、多分。

ボクのこれまでの読書の成果では、日本古代史で重要な地方が幾つかあるが、中でも重要視されるのが、筑前・筑後(筑紫の国)・肥前地方、河内・和泉・摂津(難波の国)地方、播磨、備前・備中・備後(吉備の国)地方、そして大和・近江・山城地方。今回の旅行で比較的近距離の播磨、備前・備中・備後(吉備の国)地方をこまめに探訪して究めることから、流浪の旅第二ステージの開始とする。これまでは観光的観点から全国を浅く広く探訪して回ったが、そういう目で全国を見渡しても未探訪の所がほとんど見えてこなくなった。これからは日本文化史探究的観点から重要度に応じて目を付けた地方をこまめに深く掘り起こしてみる。次は多分北部九州の文化財の探訪・掘り下げに向かう。近畿一円は気力体力さえあれば毎週末でも探訪できる。今日北陸は雨。予定では今日出発だったが、あと半日目的地をNet検索して予定を綿密に練ろうかなぁ。

2016年4月27日水曜日

〇京都「城南宮」 京の都の守護神社、白河上皇の城南(鳥羽)離宮・上皇の熊野御幸出立の地、承久の乱・鳥羽伏見の戦い開戦地

↓城南宮一の鳥居。この宮はこれまで気になっていたが、未だ訪ねていなかった。
 ↓「城南離宮」

↑「城南宮 平安遷都の際、都の南に国の守護神として創建され、国常立命(くにのとこたちのみこと)・八千矛神(やちほこのかみ)・神功皇后をお祀りする。平安時代の末、この地に白河上皇によって城南離宮(鳥羽離宮)が造営されると一層崇められ‥た。また離宮は(天皇・上皇の)方違(かたたが)えの宿所や熊野詣の精進所(出立所)となり(白河・鳥羽・後白河・後鳥羽上皇の熊野御幸は合せて90余度を数えた)、方除(ほうよけ)の信仰が高まった。承久3年(1221)後鳥羽上皇が城南流鏑馬の武者揃えと称して兵を集め、鎌倉幕府との間で承久の乱が起きたことは名高い。‥‥慶應4年(1868)正月、城南宮に陣を構えた薩摩藩の大砲が轟き、鳥羽伏見の戦いが始まり、明治維新を迎えた。‥」
 ↓手水舎と絵馬殿
 ↓絵馬殿



 ↓拝殿

 ↓祈祷所

 ↓祈祷所に向かって右にある神饌殿
 ↓本殿の屋根(最奥)
 ↓左端・本殿
 ↓以下、神苑(有料600円)

 ↓本殿の裏を通る







2016年4月25日月曜日

〇4/2(日)京都西山「願徳寺」の国宝「如意輪観音菩薩半跏像」。唐伝来仏

〇勝持寺に隣接して願徳寺がある。元は別の地に在った大寺だったが一時廃寺のようになり、本尊の国宝・重文仏像を隣の勝持寺に預託していた。近時本堂(宝庫、鉄筋コンクリート造)を建立して返還を受けた。
↓願徳寺

 ↓本堂・宝庫
 ↓国宝・如意輪観音菩薩半跏像
 〇一見して和風ではない。異土の仏像の観がある。識者の鑑定によれば、唐伝来仏か、唐仏師が渡来して制作したものだという。唐様式だということ。


 〇問題は、この唐様式仏像がどうして願徳寺にあるのかということだが、答えは出ていない。
↓重文・薬師瑠璃光如来立像。パンフからの引用だが、印刷図が粗雑過ぎて鑑賞に耐えない。

2016年4月24日日曜日

〇4/2(土)京の西山、西行が出家し剃髪したと伝わる「勝持寺」。「花の寺」、西行桜・西行像等がある

〇京都西山「勝持寺」は西行との縁が殊の外深い。最初の訪問では西行との関係を理解せずに登った。今回は西行との縁を意識して訪れた。前回は一番下の登り口から登って仁王門を潜ってこの山門まで来たが、今回はその登坂の困難を回避した。↓この高さの所に駐車場があることを知ってしまった。

 ↓本堂

↓本堂の隣に瑠璃光殿(宝物殿)がある

 〇この寺の仏像は鑑賞に耐える。
↓西行像。室町期の作という。西行がこの寺に庵を結んだ時は二十代前半だから、像はちょっと老成している。
↓薬師三尊像・重文

 ↓重文・薬師如来坐像
 ↓本尊胎内仏・重文薬師如来坐像
 ↓重文・十二神将立像

 ↓重文・金剛力士立像

↓不動堂

 ↓西行桜。右側の木。勿論何代目かの若木。

 ↑「花の寺と西行桜 平安の末期、鳥羽院の北面の武士であった佐藤兵衛義清(のりきよ)が、この寺に入って出家し西行法師となる。その折の鏡石と姿見池が残されている。武勇で知られた西行がなぜ出家したのか原因はさだかでないが、石に向いながら髪をおろしたそのその気持ちは如何であったのだろう。西行はここに草庵を結び一株の桜を植えて吟愛していた。世人はその桜を「西行桜」と称し、寺を「花の寺」と呼ぶようになり、古来から有名な花の名所として知られるようになった。‥‥。謡曲「西行桜」は、この隠栖している西行法師と、庵室の庭に咲いている桜をからませて、春宵の閑寂な情趣をえがいたもので、当寺が舞台になっている。謡曲史跡保存会」
〇西行庵があるか訊いたら受付に居た僧侶が「昔山中に庵があったが今はない」と答えた。


    ↓西行桜(当代)の花


↓鏡石
 ↓「鏡石 西行法師がこの寺で出家した時(1140年)、この石を鏡の代わりに使い、頭を剃ったと伝わっている。

石の左上の青光りする部分が、鏡状と言えば言える。
↓これが姿見池か。奥に立つ白い石が鏡石

↓冴野(さえの)の沼・歌枕

 「小塩(おしお)山松風寒し大原や 冴野の沼のさえまさるらん」←典拠は知らない
寺の裾の野が大原野。「大原野神社」がある。
↓前回(2014年)仁王門を潜って登った時の写真を添付する
 ↓仁王門


 ↓延々と石段登りが続き、ようよう山門が見えてくる。
西行が出家した時齢は23。その後数年間は京を離れ難いかのように西山・嵯峨野、東山、鞍馬山等を転々として庵を結んだ。