2015年10月4日日曜日

〇《奥の細道紀行》8/10(月) 象潟・芭蕉ゆかりの人達事績を探訪(2)

曾良随行日記
十七日 朝、小雨。昼ヨリ止テ日照。朝飯後、皇宮山 彌(満)寺(かんまんじ)へ行。道々眺望ス(象潟と鳥海山を)。帰テ所ノ祭渡ル(神輿が来たのだろう)。過テ(神輿が過ぎて)、熊野権現ノ社へ行、躍(おどり)等ヲ見ル。夕飯過テ、潟へ船ニテ出ル。⑤(今野)加兵衛、茶・酒・菓子等持参ス。帰テ夜ニ入、⑥今野又左衛門入来。象潟縁起等ノ絶タルヲ歎ク。翁諾ス。弥三郎低耳(低耳は俳号。低耳は越後路の各所に紹介状を書いてくれたがそれが効力を発揮せず問題を惹起することになる)、十六日ニ跡ヨリ追来テ、所々ヘ随身ス 。
奥の細道
‥‥。其の朝、天よく霽(は)れて朝日(あさひ)はなやかにさし出づるほどに、象潟に舟を浮ぶ。先づ能因島に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、花の上漕(こ)ぐとよまれし桜の老木(おいき)、西行法師の記念を残す。江上に御陵(みさゝぎ)あり、神功后宮の御墓といふ。寺を干満珠寺(かんまんじゆじ)といふ。此処に行幸ありし事いまだ聞かず。いかなる事にや。此の寺の方丈(はうぢやう)に坐(ざ)して簾(すだれ)を捲(ま)けば、風景(ふうけい)一眼の中に尽きて、南に鳥海天をさゝへ、其の影(かげ)うつりて江にあり。西はむや/\の関路(せきぢ)をかぎり、東に堤(つゝみ)を築(きづ)きて秋田にかよふ道遥(はる)かに、海北に構へて浪うち入るゝ所を汐(しほ)ごしといふ。江の縱横(じうわう)一里ばかり、俤(おもかげ)松島にかよひて又異(こと)なり。松島は笑ふがごとく、象潟は怨(うら)むがごとし。寂しさに悲しみを加へて、地勢魂(たましひ)をなやますに似たり。
  象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花
  汐越や鶴脛(つるはぎ)ぬれて海すゞし
   祭礼
  象がたや料理何くふ神まつり 曾良
  蜑(あま)の家や戸板を敷きて夕すゞみ 美濃の国の商人 低耳
   岩上に雎鳩(みさご)の巣を見る
  浪こえぬ契(ちぎり)ありてやみさごの巣 曾良

〇《奥の細道》が文学的創作性に貫かれていることは、このくだりの曾良と芭蕉の文章を較べてみれば分る。前提に曾良の日記には虚構がないということがある。
先ず朝飯後に早速に出かけたのは蚶満寺である(曾良日記)。然るに芭蕉は朝日が昇ったらすぐに象潟に舟を浮かべ先ず能因島を訪れたことにしている。文学的構成としてそうするのが優れていると感じたからである。
更に芭蕉は能因島を訪れてそのまま舟を蚶満寺の岸辺に着けて方丈に案内され簾を捲いて象潟の風景を愛でたことにしているが、曾良随行日記によれば象潟に舟で出たのは能登屋での夕飯後である。ここでも芭蕉は文学的構成の美しさを優先している。
〇象潟橋・欄干橋 芭蕉と曾良はこの橋上から象潟と鳥海山の眺望を楽しんだ。


 ↓橋の上。ここから象潟と鳥海山が眺望できた。山は雲の中。
 〇船つなぎ石 芭蕉と曾良が乗り込んだ象潟遊覧船もこの石に繋がれていたはず。今野嘉兵衛が茶・酒・菓子等を持参してきたのもここだったろう。


 〇今野又左衛門の家跡 
 ↓「奥の細道・今野又左衛門の家
芭蕉主従が元禄2年(1689)6月16日(陽暦8月1日)から象潟に2泊3日の滞在中、実弟嘉兵衛をつかわし、心から丁重にもてなした象潟(当時は塩越村)の名主今野又左衛門(現在は金←多分「こん」読み)の家である。17日の夜には宿の能登屋を訪ねて、芭蕉主従に象潟の由来や伝説などをいろいろ語っている。」
〇今野嘉兵衛の家跡
 ↓「奥の細道・今野嘉兵衛の家
「曾良随行日記」には今野加兵衛(実際は金嘉兵衛)が象潟滞在中の芭蕉主従を時々訪ねて世話をしたとある。嘉兵衛は名主の金又左衛門の実弟であり、又左衛門が祭りで忙しかったため、名代で芭蕉主従をもてなしたのである。当時、嘉兵衛の家があったこの場所は又左衛門の屋敷内であり、現在は嘉兵衛の直系の子孫が住んでいる。」
 ↓嘉兵衛さんの家跡前から写している。森の所で右折すると、数百米ほどのうちに、今野又左衛門宅跡、熊野神社、象潟橋が並んでいる。



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