2015年9月30日水曜日

〇《奥の細道紀行》8/10(月) 出羽国吹浦出羽街道「三崎峠」

〇「奥の細道・三崎峠」 吹浦から象潟に至る道中にある三崎峠は難路で馬を使えなかった。ここは峠を越えてきた象潟側の旧出羽街道。

 ↓こんな岩を敷き詰めた道など順調に歩けたものではない。岩石の上を飛び飛びに足を踏み外さぬように行く。昔の旅は大変。




〇リンク先・名勝羅漢岩→http://takashikun.blogspot.jp/2015/07/blog-post_2.html

〇《奥の細道紀行》8/10(月) 酒田市「本間美術館」

〇「本間美術館」にも寄った。ここに芭蕉の真筆の歌仙・掛軸などの文化財があるというので。
玉志宅で催された句会でものされた歌仙の芭蕉真筆の懐紙もあった。その他芭蕉直筆と云われる文化財が相当あった。が、懐紙をはじめ文化財のすべてがせいぜいで酒田市指定の文化財に留まっていることが、ボクには不納得だった。国・県からはその真筆性に疑念を持たれているのではないか。芭蕉真筆文書の文化財的評価がその程度だとは、ボクは思いたくない。美術館内部は撮影禁止。資料も売っていない。これも残念。
 ↓隣の本間家別邸。その昔本間家は「本間様には及ばぬまでもせめてなりたや大名に」と云われたそう。




2015年9月29日火曜日

〇《奥の細道紀行》8/10(月) 酒田・芭蕉ゆかりの人達の故地(2)

〇寺島彦助宅跡 ここで句会が催された。

 寺島宅跡の向かいは「酒田本町郵便局」。市役所から近い。

〇「玉志・近江屋三郎兵衛宅跡」 
ここで連句の会が催され有名な「初真桑」の歌仙が巻かれた。その芭蕉真筆の懐紙が酒田の本間美術館に保存されているという。ので、本間美術館にも行ってみた。ら、確かに展示されていた。が、市指定文化財に留まる。市指定という点にボクのこだわりが残った。果たして真筆か。
↓荘内証券の建物。


〇鐙屋・国指定重文。芭蕉と曾良はここにも招待され句会を催したという。





2015年9月28日月曜日

〇《奥の細道紀行》8/10(月) 酒田・芭蕉ゆかりの人達の故地を探訪。先ずは「不玉宅跡」

《奥の細道》より、
『(鶴岡から)川舟に乗つて、酒田の湊に下る。淵庵不玉(えんあんふぎょく)と云ふ医師(くすし)の許を宿とす。
あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ
暑き日を海に入れたり最上川 』
《曾良随行日記》より、
『十三日 川舟ニテ坂田ニ趣く。船の上七里也。陸五里成ト。‥‥船中少シ雨降りテ止む。申の刻(さるのこく・午後四時)より曇。暮ニ及びテ、坂田ニ着く。玄順亭(=淵庵不玉亭、不玉は酒田俳壇の重要人物)ヘ音信、留守ニシテ、明朝逢う。
十四日 寺島彦助亭ヘ被ㇾ招。俳有り。夜ニ入り帰ル。暑甚だシ。
十五日 象潟ヘ趣く。‥‥』
〇芭蕉と曾良は象潟からまた酒田に戻る。それから酒田で七泊して、地元俳人らと句吟三昧の日々を過ごした。
《曾良随行日記》より、
『〇十八日 快晴。早朝、(象潟)橋迄行き、鳥海山の晴嵐ヲ見ル。飯終りテ立つ。アイ風吹きテ山海快。暮ニ及びテ、酒田ニ着く。
〇十九日 快晴。三吟始む。明廿日、寺嶋彦助江戸ヘ被ㇾ趣(おもむかれる)ニ因りテ状認(したたむ)。翁より杉風(さんぷう)、又鳴海寂照・越人ヘ被ㇾ遣(つかわされる)。‥‥。
〇廿日 快晴。三吟。
〇廿一日 快晴。夕方曇。夜ニ入り、村雨シテ止む。三吟終る。
〇廿二日 曇。夕方晴。
〇廿三日 晴。近江や(屋)三良兵へ(衛、さぶろべえ)へ被ㇾ招。夜ニ入り、即興ノ発句有り。
廿四日 朝晴。夕ヨリ夜半迄雨降ル。
一 廿五日 吉。酒田立つ。‥‥』
◎今度酒田に行ったら、次の箇所を必ず探訪する。
★「不玉宅址」。酒田市役所の向、中町一丁目11ノ4、今・佐藤歯科医院。「淵庵不玉と云ふ医師」。本名・伊東玄順。「三吟」の歌仙が巻かれた。《温海山や吹浦かけて夕涼み》が発句。
★「安種亭令道・寺島彦助宅跡」 「寺島彦助亭ヘ被招、俳有り」の亭跡。《涼しさや海に入りたる最上川》の発句で始まる歌仙が巻かれた。
★「玉志・近江屋三郎兵衛宅跡」。荘内証券(市役所筋向い)の前。「即興の発句」《初真桑四にや断ン輪に切ン》で始まる歌仙が巻かれた。この真蹟懐紙は本間美術館に収蔵されている。
★本間美術館
★鐙谷(あぶみや)家
★日和山公園「芭蕉坂」を歩く。芭蕉の酒田上陸地から続く坂。坂を上った先が漁師町。
〇芭蕉は酒田で過ごした(象潟探訪後の)七泊のことをたった一行で片づけている。
《奥の細道》より、
『酒田の余波(なごり)日を重ねて、北陸道の雲に望む。遥々(はるばる)のおもひ、胸をいたましめて、加賀の府まで百卅里と聞く。‥‥』
〇以上が五月の連休の時の旅日記。八月盆の夏休み旅行では酒田に行ったら何としても先ずもって《不玉宅跡》を探訪しようと期していた。それを実行。猛暑日だった。
↓酒田市役所前交差点。市役所向かいに「奥の細道・不玉宅跡↓」の案内標識が立っている。
 向いの通りを入って行くと、
 緑の植木が見える。
 ↓遂に不玉宅跡に到達。

 ↓「芭蕉遺跡・不玉停 元禄二年(1689)の夏、芭蕉と曾良が訪れた伊東玄順(俳号不玉)宅跡である。象潟行の前後を通じ九泊した「奥の細道」ゆかりの地であり、この間翁は左の名句を残した。不玉の墓は妙法寺に再建されている。
暑き日を海に入れたり最上川
温海山や吹うらかけてゆふ涼
初真桑四にや断ン輪に切ン
〇寺島彦助亭・玉志亭跡等は稿を改める。

2015年9月26日土曜日

〇《奥の細道紀行》8/10(月) 酒田港「芭蕉坂」

リンク先→「酒田・日和山公園」
http://takashikun.blogspot.jp/2015/06/blog-post_30.html
〇芭蕉と曾良は、鶴岡城下の内川の船着き場から乗船して、最上川の支流の赤川に出て、そのまま最上川の河口まで来た。芭蕉らが下船したのは↓この辺りらしい。ここは最上川の河口。因みに赤川は今は最上川に注いでいない。途中で掘削された放水路を北に流れて日本海に直接流れ込んでいる。駐車場から芭蕉坂は始まる。駐車場の右側の丘の上に日和山公園がある。
 ↓芭蕉坂

 ↓「昔、鶴岡・酒田間は赤川を走る日通し船で往来していた。旅人は御米置場辺りから上陸するとこの坂を歩き、鶴岡街道と呼ばれる出町・六間小路を通って町へ出た。古い石段はそれを物語る。俳聖芭蕉も曾良と共にこの坂を歩いて伊東不玉宅を訪れたのであろう。」

 ↓出町

↑後で書き写す。★




2015年9月24日木曜日

〇9/21(月) 三女《NATSU》singer song writer のライブ。白山市「夕焼け」

〇三女には驚かされる。ニ、三年前から本式にsinger song writer としてライブ活動をやり始めた。金沢で。本業の歯科医の仕事をやりながら。ギターもその頃からで下手っぴぃ、ながらも白山市のライブハウス「夕焼け」に押しかけて歌っていたらしい。金沢駅の構内でもギターを抱えてストリートライブを敢行したらしい。心臓に毛が生えていると言われたらしい。それが一年前、独りで東京に出て行った。singer song writer として生涯悔いを残さぬよう東京で頑張ってみたいんだそう。東京に勤務先を確保して出かけて行った。そしていつの間にか神戸にまで足を延ばしていると見えて神戸のバンド「Jam&Cool」と一緒に白山市の「夕焼け」にライブをしに戻ってきた。翌日は富山県山田村でライブの連チャンだという。
金沢に住む次女が夫と一緒に白山市のライブに参加するというので、ボクも参加することにした。
↓三女《NATSU》
 ↓姉夫婦とNATSU




   

 ↓ビアニカという新兵器を登場させた。それが様になっていた。

  ↓ギターも驚異的に上達。





  ↓ビアニカ







 〇超・想定外のエンターテイナーっぷりだった。誰の子か分らなくなった。上京して池袋でストリートライブから事を始めたというから根性が違う。常人ではない。詩人としての天分があることだけは、ボクは三女の十代の時から知っていたんだが。