2015年6月12日金曜日

〇《奥の細道》紀行・出羽路(10) 最上川「大石田」。「新庄」が芭蕉の手で抹殺された。

奥の細道》より、
最上川のらんと大石田と云ふ所に日和を待つ。爰(ここ)に古き俳諧の種(落ち)こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、蘆角(ろかく)一声の心をやはらげ、此の道にさぐりあしして、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻(を)残しぬ。このたびの風流、爰に至れり。』
〇「わりなき一巻を残しぬ」 断るわけにもいかなくて歌仙一巻を残した。《さみだれをあつめてすゞし最上川》を発句とする一巻。当初の句は「早し」ではなくて「涼し」だった。
〇「蘆角」 アシの笛という意味ではないか。
〇《奥の細道》を読むと、大石田で最上川を下る舟に乗ったように見える。しかしそうではなくて、大石田には「一栄」宅に28日から30日まで逗留し、それから馬で北の新庄に向かい、新庄の風流宅で6月1日2日と過ごしている。新庄を立ち、最上川の下り舟に乗ったのは3日である。乗船地は元合海(もとあいかい・今の地名は本合海)。新庄・本合海間は長い山道を西に行く。
〇《奥の細道》には「新庄行き」のくだりが全く出てこない。割愛されている。何故なのか?新庄市民はさぞかし不本意だろう。尾花沢は《奥の細道》の御蔭で今もそして未来永劫に名を馳せ、観光立地の得も享受するだろう。それに引き比べてウチはァ‥‥という訳。ボクの今回の奥州路・出羽路・越後路紀行での最大の疑問は、新庄が何故《奥の細道》で無視されたのかということ。《曾良随行日記》を読むと、芭蕉が《奥の細道》紀行で訪れた所のうち、ある所を軽視・無視するのにはある癖(へき)があることが分る。その癖というのは、不人情・理不尽な目に遭わされた所に現れる。石巻の段、越後路ほとんど無視の段に現れている。しかし、新庄で芭蕉は決して冷遇されていない。むしろ厚遇されている。このことは《曾良随行日記》を読めば分る。
『〇六月朔(一日) 大石田を立つ。辰刻(たつのこく・午前8時)、一栄・川水、弥陀堂迄送ル。馬二疋、舟形迄送ル。‥‥舟形‥‥二リ(里)八丁新庄。風流ニ宿ス
二日 昼過ぎより九郎兵衛へ被ㇾ招(まねかれる)。彼是(かれこれ)、歌仙一巻有り盛信(宅)。(やすむ)、塘夕、渋谷仁兵衛、柳風共。孤松、加藤四良兵衛。如流、今藤彦兵衛。木端、小村善衛門。風流、渋谷甚兵ヘ(衛)(風流は、尾花沢へも早速に駆けつけてきた)。
〇三日 天気吉。新庄ヲ立ち、一リ(里)半、元合海。‥‥』
芭蕉を慕って人も集まり、歌仙も巻いているのだ。新庄が《奥の細道》で無視されたのは、芭蕉の不快感とは無関係の事情によるものと見なければなるまい。
 この疑問に答えるには、現地を踏破してみるしかない。現地を知る者には《奥の細道》の中で続いて展開される次のクライマックスシーンの文章の意味が理解される。
奥の細道》より、
最上川はみちのくより出(いで)て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云ふ、おそろしき難所有り。板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の滝は、青葉の隙々に落ちて、仙人堂岸に臨んで立つ。水みなぎつて、舟あやうし。
五月雨をあつめて早し最上川 』
この後段を、最上川をめぐる地理の知識なしに読めば、芭蕉は、ごてん・はやぶさ・三ヶ瀬の最上川三大難所を乗り切って、仙人堂・白糸の滝を見物しながら最上川を下って行き、かの有名な五月雨の句を詠んだように思うだろう。ところが、最上川のハイライトの三大難所は大石田と本合海の間にある。本合海から下流には仙人堂と白糸の滝があるのみ。芭蕉の文学的創作癖はここにおいて躍如とする。最上川のらんと大石田と云ふ所に日和を待つ」ときた後に「ごてん・はやぶさなど云ふ、おそろしき難所有り」とくれば、三大難所も通過したと思い込むだろう。芭蕉の筆は絶妙で、三大難所を通ったとは書いてないが、読者は文脈に誘導されて通ったかのように錯覚する。そうなれば、最上川紀行としては完璧になる。五月雨の句も輝く。五月雨を集めて早い水流の中、三大難所を乗り切ったとは、まさに「舟あやうし」だったろうことよ。ここに新庄往来のくだりが挿入され、大石田・本合海間が陸路だったとなっては幻滅し、最上川紀行の劇的イメージが壊れる。新庄は抹殺されて悲劇の主人公となるしかなかった。
 それと新庄の不利は、尾花沢との地理的位置関係にもあったろう。両者は共に山形県(羽前国)の東北隅にあって隣り合っている(新庄が尾花沢の西北にある)。芭蕉の行程は、尾花沢からググッと南下して天童市の立石寺に至り、また北上して大石田経由で尾花沢の西北の新庄に至っており、その旅程の線形は美しくない、汚い。天童から大石田に出、そこから三大難所を通過して最上川を下って行くコースの線形は美しい。この美意識も新庄が省かれた一因になっているかも。
〇芭蕉は大石田で迷っていたと思われる。
①舟に乗り三大難所を通って羽黒三山の麓に出ること。
②山形を訪れること。
③新庄に行き風流らと会うこと。
迷いながら描く線形は確かに美しくない。

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