2015年6月30日火曜日

〇《奥の細道》紀行・出羽路(31) 「酒田の湊」《暑き日を海にいれたり最上川》

奥の細道》より、
『(鶴岡から)川舟に乗つて、酒田の湊に下る。淵庵不玉(えんあんふぎょく)と云ふ医師(くすし)の許を宿とす。
あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ
暑き日を海に入れたり最上川 』
曾良随行日記》より、
十三日 川舟ニテ坂田ニ趣く。船の上七里也。陸五里成ト。‥‥船中少シ雨降りテ止む。申の刻(さるのこく・午後四時)より曇。暮ニ及びテ、坂田ニ着く。玄順亭(=淵庵不玉亭、不玉は酒田俳壇の重要人物)ヘ音信、留守ニシテ、明朝逢う。
十四日 寺島彦助亭ヘ被ㇾ招。俳有り。夜ニ入り帰ル。暑甚だシ。
十五日 象潟ヘ趣く。‥‥』
↓ 日和山公園に着いた。この公園に登って来たのも偶然。実は不玉亭を探し回っていたが全然宛がない。そのうち腹具合がおかしくなって公園に行けばトイレがあると思ってやって来た。ら、トイレがあり、そうして目の前に芭蕉像が建っていた。

 ↓芭蕉句碑が、①⑪⑫と三箇所もある。それに銅像もある。

 ↑「松尾芭蕉 酒田到着の地【奥の細道】
元禄2年(1689)6月13日松尾芭蕉は夕刻川船にて酒田に着く。上陸地は日和山公園灯台下あたりではないかとされている。神明坂を上り、芭蕉坂から漁師町へ抜ける。芭蕉坂はこの展望広場のすぐ下。当時、芭蕉47歳・曾良41歳。
坂田滞在中に芭蕉が詠んだ句
《暑き日を 海に入れたり 最上川》
《温海山や 吹浦かけて 夕涼》
↓ 展望台下の芭蕉坂
 ↓ 芭蕉銅像と句碑



 ↓《暑き日を海に入れたり最上川》
 ↓芭蕉句碑
 ↓「元禄二年(1689)芭蕉が奥の細道の途次、坂田の伊東不玉宅で詠まれたものである。猶芭蕉自筆「おくの細道」によると、「温海山」は「あつみ山である。‥‥」
 《温海山や吹浦かけてゆう涼》

 芭蕉上陸地はこの灯台下あたり。


 ↓芭蕉文学碑

「松尾芭蕉 あふみや玉志亭にして、納涼の佳興に瓜をもてなして発句をこふて曰く、句なきものは喰事あたはしと戯れけれは
初真桑四にや断ん輪に切ん  はせを
初瓜やかふり廻しをおもい出つ  ソ良
三人の中に翁や初真桑  不玉
興にめててこゝろもとなし瓜の味  玉志
      元禄二年晩夏末
芭蕉が酒田在中の元禄二年(1689)6月23日、市内のあふみやに招かれて、即興の発句会を催した時の作で、芭蕉が懐紙に残しており、本間美術館に保存されている。
★酒田市役所前に標識があり、近くの
不玉亭跡
②寺島彦助邸跡、その他に必ず着けるという。絶対行く。

2015年6月29日月曜日

〇《奥の細道》紀行・出羽路(30) 鶴岡市(三)内川船着き場(酒田湊行)

奥の細道》より、
『(鶴岡から)川舟に乗つて、酒田の湊に下る。』
曾良随行日記》より、
十三日 川船ニテ坂田ニ趣く。』
 ↑「奥の細道内川乗船地跡 元禄2年(1689)の春に江戸を出て、陸奥から出羽をめぐっていた俳聖松尾芭蕉は、6月10日に羽黒山を下り、鶴岡城下の庄内藩士長山重行宅で地元の俳人たちと俳諧を楽しむ3日間を過ごした。13日にはこの内川の船着き場から船で酒田に赴いた。当時の酒田通いの船は、内川より赤川を経て最上川河口の酒田まで7里(約28km)、ほぼ半日を要したという。








 ↓電柱に「長山邸跡←160m」。黄色の標柱「松尾芭蕉滞留の地・長山重行宅跡←この先160m右折二軒目」
〇内川は、鶴岡城の外濠の機能も果たしていたそう。鶴岡市街を出ると赤川に合流し、赤川は最上川にその河口で合流していた。赤川は今は、庄内砂丘を切り通して直接日本海に注ぎ込むように流路を変えられている。

〇《奥の細道》紀行・出羽路(29) 鶴岡市(ニ)長山邸跡近くの「日枝神社」の芭蕉句碑《珍しや山をいで羽の初なすび》

〇芭蕉の鶴岡滞在日程は、《曾良随行日記》よれば次の通り。
十日 ‥‥申の刻(さるのこく・午後四時頃)、鶴ヶ岡長山五良右衛門宅ニ至ル。‥‥』
『十一日 折々村雨ス。俳有り。翁、持病不快故、昼程中絶ス。』
『十二日 朝ノ間村雨ス。昼晴。俳、歌仙終ル。‥‥』
『十三日 川船ニテ坂田(酒田)に趣く。‥‥』
↓ 長山小路に入る向いにある日枝神社。

 拝殿

  本殿
  ↓ 厳島神社。ここに芭蕉句碑があった。
 ↓ 芭蕉句碑。
 《珍しや山をいで羽の初なすび》

2015年6月28日日曜日

〇《奥の細道》紀行・出羽路(28) 鶴岡市(一)芭蕉逗留地「長山重行邸跡」

奥の細道》より、
羽黒を立ちて、鶴が岡の城下、長山氏重行と云ふ物のふ(武士)の家にむかへられて、俳諧一巻(ひとまき)有り。佐吉(=呂丸・露丸)も共に送りぬ。』
曾良随行日記》より、
十日 曇。‥‥。昼前、(羽黒山)本坊に至りて、蕎麦切り・茶・酒ナド出。未の上刻(ひつじのじょうこく・午後1時40分頃)ニ及ブ。‥‥。佐吉(呂丸・露丸)ノ宅ヨリ翁計(ばかり)馬ニテ、光堂迄釣雪送ル。佐吉同道。々(道々)小雨ス。ヌルヽ(濡るる)ニ不ㇾ及。申ノ刻(さるのこく・午後4時頃)、鶴ヶ岡長山五良右衛門宅ニ至ル。粥を望み、終りテ眠休シテ、夜ニ入りテ発句出テ一巡終ル。』
↑「奥の細道・長山重行宅跡地 出羽三山を巡拝した俳聖松尾芭蕉は、元禄2年(1689)6月10日、羽黒山を下って鶴岡城下に住む庄内藩士、長山五郎右衛門重行の屋敷に入った。芭蕉翁は三山巡礼の疲れからかすぐに休息したが、夜になって曾良・重行・呂丸と歌仙を巻いた。「めずらしや山をいで羽の初茄子」は其のときの翁の発句で、食膳に供されたこの地方の名産一口なす(民田なす)が目にとまったものであろう。翁は重行宅に3日間滞在し、13日に近くの内川船着き場から川船で酒田に向った。長山重行は、呂丸や岸本公羽と共に蕉門の俳人として、鶴岡俳壇に重きをなした人物である。重行は元禄13年に屋敷替えになるが、この辺りは今でも長山小路とよばれている。」
 ↓「現在地」=長山重行宅跡地の上に「日枝神社・芭蕉句碑」があり、すぐ下に「芭蕉乗船の地」がある。いずれもこの後探訪する。
↓ 小さな神社の背後に、長山重行邸跡がある。ここに至れたのは全くの偶然。鶴岡の街に入ってはじめ全然見当がつかないので、先ずはJR鶴岡駅に行ってみた。観光案内板に表示があるかと期待して。が、全く無視されていた。仕方なく駅前からまっすぐ伸びる道を進んでみた。その道が変則丁字路にぶつかった時、ちょっと迷って右にハンドルを切ったら進路左側に口をあけた小路の入口に「長山重行邸跡」の案内が小さく出ていた。入るとセレナ一台ギリギリの小路。それを右折し左折する。そしてたどり着いたのがここ。
 ↓長山重行邸跡

 ↑↓「奥の細道・芭蕉滞留の地」石碑
 ↓芭蕉句碑
 《めづらしや山をいで羽の初茄子
↓ 日枝神社前に発見した案内標示。

2015年6月27日土曜日

〇《奥の細道》紀行・出羽路(27) 出羽三山「湯殿山」

奥の細道》より、
『(月山山頂より)‥‥湯殿に下る。
谷の傍らに鍛冶小屋と云ふ有り。此の国の鍛冶、霊水を撰びて、爰(ここ)に潔斎して劒(つるぎ)を打ち、終(つい)に月山と銘を切つて世に賞せらる。彼の龍泉(りょうせん)に剣を淬(にらぐ、焼きを入れる)とかや。干将(かんしょう)・莫耶(ばくや)(中國周末の名工夫妻)のむかしをしたふ。道に堪能(かんのう、一芸に深く通じること)の執(しふ、執心)あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜の、つぼみ半ばひらけるあり。ふり積む雪の下に埋(うずもれ)て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花、、爰にかほるがごとし。行尊僧正の歌の哀れも、爰に思ひ出でて(もろともにあはれと思へ山ざくら花より外に知る人もなし)、猶まさりて覚ゆ。惣而(そうじて)此の山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍(より)て筆をとゞめて記さず。坊に帰れば、阿闍梨の需(もとめ)に依りて、三山順礼の句々、短冊(たんじゃく)に書く。
涼しさやほの三か月の羽黒山
雲の峯幾つ崩て月の山
語られぬ湯殿にぬらす袂かな
湯殿山銭ふむ道の泪かな 曾良 』
〇以下の写真はこの「日本の神社・出羽三山」出自。
 ↓以下四枚の写真については、その後に説明図がついている。
①大鳥居
②玉姫稲荷神社
③姥権現
④大滝神社








↑「過去の月山、現世の羽黒山、そして未来を象徴する湯殿山、三山の御神体を巡拝することで生きたまま悟りを得られると考える「御神体巡拝」。羽黒山から入り、続いて主峰の月山で死と転生の修行を行い、湯殿山で再び再生する。かつては湯殿山を「総奥の院」と称し、最も大切な山とみなしていた修行者は故郷で葬送の儀式を済ませ、死者を意味する白衣を身に着け出羽三山を目指す。まず羽黒山山麓の宿坊で一夜泊る(一の宿)。ここが現在であり、次の月山山中で二泊目を迎え(二の宿)、死後の世界へと移る。そして最後、湯殿山で三泊目を過ごし(三の宿)、未来へと転生する。再び生まれ変わることを体験し、「結縁入峰(けちえんにゅうぶ)」が成就する。」
↓「湯殿山麓の寺院・大日坊に眠る、真如海上人即身仏」