2014年10月5日日曜日

〇「奥の細道紀行」(46) 須賀川宿・結(ゆい)の辻

〇須賀川市街地の中心にある結の辻に立ち寄った。目的はそこに建っている芭蕉と曾良の像に逢うため。しかし遺憾なことに幾ら目を皿にして隈無く探索しても見当たらない。事情が有って撤去されたか。代わりに大きな案内板「芭蕉七泊八日の旅日記」を撮影。この旅日記とは、曾良の随行日記を指す。
↑上段の抜粋「‥‥芭蕉は、みちのくの玄関口、白河の関を越え、途中、阿武隈川を渡り、磐梯山を仰ぎ見ながら、四月二十二日(陽暦6月9日)に須賀川に入り、かねてから親交のあった知人、相楽等窮宅に草鞋をぬぎ、八日間滞在しました。等窮は、須賀川宿の長であり、問屋業を営んでおり、須賀川俳壇の中心的人物でもありました。当時の須賀川は、奥州街道屈指の宿場町として経済的、文化的にも反映をきわめており、多くの俳人を輩出し、今もなお、俳諧文化が受け継がれています。」
☆中段・下段は曾良の随行日記本文とその現代語訳が掲示されている。煩を厭わず書き出すことにする。
〇四月二十二日(陽暦6月9日)須賀川に入った芭蕉たちは本町の相楽等窮宅にたどり着いた。その夜、芭蕉、曾良、等窮の三人による三吟歌仙の会をもうけた。芭蕉は、みちのく入りの感慨を込めた「風流の初やおくの田植うた」を詠んでいる。
〇四月二十三日(陽暦6月10日)夕方に等窮屋敷の一隅に庵を結ぶ隠遁僧・可伸を訪ねた。芭蕉は隠棲する可伸のつましい生き方に共感を持ち、翌日可伸の草庵で歌仙の会を催す約束を交わして、帰りに近隣の寺や八幡社などを参拝した。
〇四月二十四日 この日は、等窮宅の田植の日であった。昼過ぎより、須賀川の俳人たちが芭蕉たちを迎え、可伸の草庵にて七人による歌仙の会が催された。この歌仙で、芭蕉は「かくれ家や目だたぬ花を軒の栗」と発句を詠み、この句は後に「世の人の見付けぬ花や軒の栗」と推敲される。俳席のあと、等雲による蕎麦きりの振る舞いを受けた。
〇四月二十五日 二十五日は等窮宅の物忌の日で、飲食や動作を慎んで心身を清め、けがれにふれないように別におこした火を使用するのが習わしだった。
〇四月二十六日 小雨模様のこの日は、芭蕉は、江戸の杉山杉風宛に旅の状況を認めた書簡を送っている。
〇四月二十七日 二十七日は曇りであった。芭蕉、等窮、曾良による二つの「三つ物」(発句・脇句・第三句から成る)「四句」の俳席がもうけられた。その後、芹沢の滝を訪れている。
〇四月二十八日 二十八日は出発の日であったが、地元の俳人たちの勧めで、郡山への途次、石河の滝(乙字ヶ滝)に立ち寄ることにした。しかし、雨が降り続いていたために水かさが増し、川の徒渡りが難しいことから出立は翌日に延期された。同日、矢内彦三良宅に出向いて暮れ時まで過ごし、帰りに十念寺等、諏訪神社(神炊館神社)に参詣した。
〇四月二十九日 二十九日は快晴の空のもと、用意されていた馬にまたがり、等窮宅を後にした。途次、「乙の字」の形をなして勇壮に流れ落ちる乙字ヶ滝(石河の滝)を眺め、郡山へ向かった。
五月雨の滝降りうずむ水かさ哉
 ↓案内板に嵌め込まれていた芭蕉と曾良の旅姿図。渡辺光徳画。

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