2014年9月6日土曜日

〇「奥の細道紀行」(21) 憾満(かんまん)ヶ淵

卯月朔日、御山に詣拝す。」奥の細道に記された日光山の社寺廻りの記事はたったこの一文に尽きるんだが、ボクはこの一文の含蓄に従い日光山の社寺全部を回ることにした。芭蕉のことだ、その興味津々の心が、三社権現・東照宮・輪王寺(当時新築の大猷院を含む)の一つでも見納めしない筈がないと信じたから(ボクでさえそんな不行跡はしない)。日の長くなった季節だ、午後二時半から夕暮れまでに廻りきれないことはない。この日、芭蕉は
あらたう(尊)と青葉若葉の日の光
の一句を残している(「たうと」は本来「たふと」だろう)。この句が詠まれた場所は、滝尾神社参道入口付近の「開山堂」が最適地だとボクは感じた。そしてこの夜は、上鉢石宿(今市)の自称「仏五左衛門」の旅籠に泊ってこの亭主を観察して感心する。
翌日、芭蕉と曾良は「裏見の滝」を見物した。この件(くだり)の奥の細道の原文。「廿余丁を登って瀧有(り)。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落たり。岩窟に身をひそめ入(り)て瀧の裏よりみれば、うらみの瀧と申(し)伝え侍る也。」そして一句詠んでいる。
暫時(しばらく)は瀧に籠るや夏(げ)の初(はじめ)》 
「夏」は僧の夏行(げぎょう)のこと
芭蕉の日光山見物の記事は、以上ッ終りっ、だが、曾良が随行日記で旅程の詳細をメモしている。それによると芭蕉と曾良は裏見の滝から神橋に戻るように大谷川(だいやがわ)の含満ヶ淵(憾満ヶ淵)を巡っている。このコース取りだと、滝と淵の途中にある「大日堂」も訪れた可能性が大きい。
ボクは「含満ヶ淵(憾満ヶ淵)」は発見できた。が、大日堂は発見できなかった。大日堂は明治時代に洪水で流されて今は跡形もない。

ここにあった寺院も、明治時代の大洪水で流された。












  ↓この地蔵は「化け地蔵」とも呼ばれる。数える毎に数が合わないんだそう。


 ↑「憾満ヶ淵(含満ヶ淵) 男体山から噴出した溶岩によってできた奇勝で、古くから不動明王が現れる霊地といわれる。川の流れが不動明王の真言を唱えるように響くので、晃海大僧正が真言の最後の句の「カンマン」を取り憾満ヶ淵と名付けたという。‥‥1689年、松尾芭蕉も、奥の細道行脚の途中立ち寄っている。‥‥」


〇芭蕉と曾良はこの日の昼過ぎ、那須野に向けて慌ただしく旅立っている。

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