2014年8月23日土曜日

〇8/9(土)「奥の細道紀行」(5) 芭蕉宿泊地・春日部宿 8/9(土)隆君の旅日記

〇江戸深川を舟で出て千住宿に上陸した芭蕉と曾良の一行は、この日歩きに歩いて草加・越谷宿を経て粕壁(春日部)宿に到達した。曾良・随行日記によるとこの夜は粕壁宿に泊まっている。宿泊先の記載はないが、伝承では「医王山・東陽寺」か「小渕山・観音院」とされている。ボクは旧日光街道と思しき道を辿って執念でこの二寺院を発見した。
↓「小渕山・観音院」仁王門。地震による損壊で修理中。
 ↓本堂。本尊は聖観世音菩薩


 本堂前お堂に役行者が祀られている。
 本堂から仁王門を見る。
 庭園にある芭蕉句碑。「ものいへば唇さびし秋の風
 ↓「医王山・東陽寺」。曹洞宗。
 ↓本堂


 ↓本堂前の茂みに立つ奥の細道記念石碑
「廿七日夜カスカへ二泊ル。江戸ヨリ九里余」
 ↓石碑左下の絵の拡大。芭蕉と曾良。


〇ボクはこの夜、春日部市の隣町にある道の駅・庄和に泊まった。以下は本日のボクの旅日記。
8/9(土)
07:30、中央道・(山梨県)藤野PAで起床。08:20、出発。
ナビの貢献100%のお蔭で新宿から首都高速に入り右に左に分岐をクリアして無事箱崎で降りた、多分江東区。この後ボクがしくじって下道を右往左往したが、これもナビの力で何ということもなく乗り切った。そして目指す芭蕉庵に辿り着いた。10:00。そこは芭蕉稲荷明神という。猫の額。芭蕉庵は武家屋敷になり、大正時代の津波で流されて、その所在位置は見失われていた。が、津波の後、芭蕉が愛でていた《石の蛙》が発見された。その位置がここ芭蕉稲荷明神だという訳。江東区深川。近くの芭蕉展望台にも上がった。ここからは隅田川が一望できる。芭蕉は、庵の傍から隅田川に舟を浮かべて千住宿を目指して奥の細道の旅に出た。その出発点をこの目で見、この足で踏みしめた。幸先が良い。深川では雨に祟られず。近くの台東区芭蕉記念館も探訪。記念館で観て心に残ったもの――《石の蛙》の原物、芭蕉と曽良の旅装、芭蕉生涯の旅の行程図。
草の戸も住替る代ぞひなの家》(くさのともすみかわるよぞひなのいえ)
の句の舞台が芭蕉庵。
芭蕉は隅田川を遡上しながら、「上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし」と嘆いた。谷中の花は今は霊園の桜を指すが、この時季に訪れても仕方がないので初めから計画外。上野の花は公園の桜だろうが、この際未だ探訪してない寛永寺を訪れてみようと計画したが、甘かった。寛永寺は基本的には霊園事業を本業とした法人と化していた。境内は非公開で駐車場が全然ない。厄介なことに文化財の建造物はとんでもなく分散している。根本中堂はどこかの学校の中、釈迦堂(大黒天)は東京芸大の構内、五重塔は上野動物園の中(塔は今は寛永寺のモノでないらしい)、弁財天堂は東大近くのとんでもなく遠い不忍池の中。よっぽど段取りしていかないと一筋縄でいかない。そう言えば、浅間山の鬼の押出の中にある赤い観音堂も寛永寺のモノだった。ボクは寛永寺の特殊性にギブアップ、というか見限った。11:45。雨も降ってきたし。
芭蕉は隅田川を遡って千住大橋の袂で舟を下りた。千住宿は日光街道一番目の宿場、芭蕉が奥の細道に向けて歩き出した矢立の地。ここも必見だろう。そして今日、この目で見、この足で踏んだ。さらに幸先が良くなった。橋の袂の交番のお巡りさんの親切も受けた。
行春や鳥啼魚の目は泪》(ゆくはるやとりなきうおのめはなみだ)芭蕉が千住宿で舟から上がり、矢立の初として詠んだ句。
草加宿。芭蕉は千住から歩き出した日のこととして「その日、漸草加と云宿にたどり着にけり」と書き残した。千住から草加まで国道4号線が昔の奥州街道・日光街道に当っていた。それが草加に近づくとバイパス然として大きくうねる所がある。ボクはうねらず直線的に延びていく県道を選んで走り続けた。これが旧日光街道だろうと見当をつけて。それが見事的中し、県道沿いに河合曽良像と松尾芭蕉像を発見した。両像は別々の公園にあった。曽良像は草加せんべい発祥地を示す小公園に、芭蕉像は綾瀬川の河岸場を示す草加松原公園に。草加には宿場町の面影を残すものは何もなし。
越ケ谷宿。宿場町の面影は全くない。素通り。
春日部宿。芭蕉が旅の初日に泊まったのは、草加宿ではなく春日部宿だった。曽良の手記にそうメモしてある。宿泊先は不明だが、医王山東陽寺か小淵山観音院との伝承があるそう。その二寺院を旧日光街道・県道沿いに探り当てた。現存する。春日部にも宿場町の面影はない。この時点で16:30
近くの道の駅をナビで探すと5kmちょっとの所に道の駅・庄和があった。本日はここで夜を明かす。
明日は歌枕《室の八嶋》を探訪する。

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