2014年12月31日水曜日

12/31(水) とうとう大晦日。津山市、美作市、備前市を走り回りほぼ目標達成。

瀬戸内市の目標を残したので、今夜は瀬戸内市の道の駅・一本松展望園に泊まる。ファミマで独りで年越しそばを食べようと思いざるそばを買ったが、マーボ豆腐も買ってしまったらチンしてくれたのでこっちを晩御飯に食べてしまった。ざるそばは元旦の朝食。
次女明神に会っていって好かった。次々と厄を免れている。昨夜中國自動車道で前の車を抜こうとしたら後から一台スッと抜いて行った。ら、前の車がフィッとその後に付いて速度違反で御用。覆面パトカーの後部ガラスに「パトカーの後に続け」の赤い電飾文字。今朝津山の郊外を後続車としてゆるゆる走っていたら、速度取締の器械と警察部隊がいきなり現れた。命拾い。御利益もあった。行き先を間違い久米郡美咲町というとんでもない所に出たら、そこが本日一番の成果の探訪地。本山寺。間違わなければたどり着けなかった。次女の顔を見るために福井でわざわざ降りなければ歯車はみんな裏目に回ったんじゃないか。
今日は短い日中、朝から夕まで働き続けた。成果は大いにあった。諦めかけた探訪地も二、三あったが、スマホのテザリング機能を生かしネットで探索して克服した。今回の旅の予定探訪地10のうち8を一日でこなした。明朝瀬戸内市の二箇所を回ったらそのまま山陽道伝いに七尾に帰ろうと思っている。考えてみたら元日陽のあるうちに裕の家に入るのは無理だろうから、播州も二、三箇所探訪して帰ることになるだろう。正月二日には陽のあるうちに裕の家にお邪魔する。
〇今日廻った探訪地のダイジェスト版。
①久米郡美咲町・本山寺 奥深い山中にある。天台宗
↓「寺侍長屋」。要するに僧兵が居た。天台修験道が盛んだったろう。
 ↓霊屋


 ↓本堂・重文

 ↓常行堂
 ↓三重塔・重文


 ↓宝篋印塔・重文

2014年12月30日火曜日

〇12/30(火) やっと旅に出立した。目標は津山・美作方面の重文建造物。

午前十時、七尾発。福井で次女と会った。一目顔を見れたらいいなぁとスマホしたら、丁度当直明けで会えた。幸先好し。
行き先は昨日ネット情報を仕入れながら練った。津山市・美作市(美作国)、備前国方面に意外と重要な重文建造物がある。それでそちら方面を探訪することに。戻りに時間があれば播磨・摂津(神戸市)の重文も探訪するが、多分時間不足。
以下探訪予定先を列挙。
①津山市小田中 本源寺・本堂、庫裏、霊屋(たまや)・霊屋表門、中門
②津山市総社 美作総社宮・本殿
③津山市一宮 中山神社・本殿
④津山市山北 鶴山八幡宮・本殿
⑤美作市真神 長福寺・三重塔
⑥岡山県久米郡美咲町 本山寺・三重塔、宝篋印塔、本堂
⑦瀬戸内市牛窓 本蓮寺・中門、番神堂三棟、本堂
⑧総社市 宝福寺・三重塔
⑨備前市 真光寺・三重塔、本堂
⑩備前市 大滝山福生寺・三重塔
播磨国、摂津国の予定先は省略。次回回しという手もあるので。重要な重文が沢山ある。
早く帰って裕の家のお正月に混ぜてもらいたい。
ひたすら高速道を走り、午後七時・津山IC手前の勝央SAに入った。今夜はここで寝る。ままかりの押し鮨を売っていたのでそれを晩飯にした。

2014年12月27日土曜日

〇松尾芭蕉《奥の細道紀行》北陸路(1)新湊市「那古(なご)の浦・放生津(ほっしょうづ)神社」

〇芭蕉が越中の国に入って最初に訪れた歌枕が「那古の浦」。それがどこにあったかははっきりしないが、どうやら新湊市の「放生津神社」の裏手の海岸線らしいと見当がついたので10月の一(いち)日午後遅くに探訪のため七尾を出た。↓夕闇がやがて降りてこようという頃に神社に到着。

拝殿
↓これは狛犬(こまいぬ)ではない。獅子である。
↓本殿

↓拝殿
↓芭蕉句碑を発見

早稲の香や 分け入る右は有磯海
句碑は風化して「早」の字くらいしか判読できない。
↓大友家持の歌碑

↓神社の裏手の海岸線が那古の浦にあたると思われるが、今は埋め立てられて漁連の大建物が並びその先に漁港が開かれている。


2014年12月22日月曜日

〇彦根、佐和山と清凉寺、井伊家の菩提寺

↓佐和山。石田三成の居城があった。


 ↓清凉寺。背後に佐和山。佐和山はこの寺の境内地。


 ↓本堂。曹洞宗。内陣に本尊・釈迦如来像が安置され、その真後ろに井伊家の位牌堂がある。
 ↓本坊
 本坊玄関。総欅造り。インドから取り寄せたケヤキだそう。
 ↓禅堂

〇12/13(土) 広島県廿日市市「海の見える杜美術館」《竹内栖鳳展》

〇湖北の十一面観音巡りをボクが企画して提案したらM氏夫妻が乗って実現することに。M氏が寺・仏像に関心を持っていたので。M氏の友人Tさんも参加することに。総勢4名。それがM氏の提案でとんでもない大旅行に。土曜日の午前3時に七尾を車で出てその日正午に広島県廿日市市「海の見える杜美術館」に到達しその日のうちにトンボ返りして彦根のホテル到着予定に。目的は↓の「竹内栖鳳展」。ボクは案の定寝過ごして出発を遅らせたが、到着は何と定刻通り。全行程860km。それをM氏が独りで運転し通した。ボクは助手席でウィスキーをラッパ飲みして左うちわ。
↓このポスターの絵は、竹内栖鳳の油絵。生涯一枚の油絵だそう。
↓海の見える杜。向の山並みは宮島。逆光。




↓ロビー。中央・竹内栖鳳
↓宮島口の老舗あなご食堂に行く途中に見た宮島弥山(みせん)
この後彦根のホテルに午後九時に到着。全行程六百数十km。運転はやはりM氏。
〇竹内栖鳳の画には感心させられた。普通の日本画に無い面白さがある。斬新。画集を買った。

2014年12月21日日曜日

〇ゾロアスター教(拝火教)

〇以下Wikipediaより。「ゾロアスター教の起源は古く、紀元前6世紀アケメネス朝ペルシアが成立したときには、すでに王家と王国の中枢をなすペルシア人のほとんどが信奉する宗教であった。紀元前3世紀に成立したアルサケス朝のパルティアでもヘレニズムの影響を強く受けつつアフラ・マズダーへの信仰は守られ、3世紀初頭に成立した、後続するサーサーン朝でも国教とされて王権支配の正当性を支える重要な柱とみなされた。ゾロアスター教は、活発なペルシア商人の交易活動によって中央アジア中国へも伝播していった。
7世紀後半以降のイスラームの台頭とペルシア人のムスリム化によってペルシアのゾロアスター教は衰退し、その活動の中心はインドに移った。17世紀以降のイギリスアジア進出のなかで、イギリス東インド会社とインドのゾロアスター教徒とのあいだで関係が深まり、現在、きわめて少数派ながらインド社会で少なからぬ影響力を保持している。
ゾロアスター教の教義は、二元論を特徴とするが、善の勝利と優位が確定されている宗教である。一般に「世界最古の一神教」と評されることもあるが、これは正確ではなく、その教義のなかではアムシャ・スプンタなど多くの神々が登場する。(隆君註。善は光、悪は闇のこと)
開祖はザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトゥストラ)とされる。経典宗教の特徴を有し、その根本教典より「アヴェスターの宗教」ともいえる。そうしたイラン古代の宗教的伝統の上に立って、教義の合理化・体系化を図った人がザラスシュトラであるとも考えられる。
ゾロアスター教は(善)の象徴としての純粋な「」(アータルアヴェスター語ātar‎)を尊ぶため、拝火教(はいかきょう)とも呼ばれる。ゾロアスター教の全寺院には、ザラスシュトラが点火したといわれる火が絶えることなく燃え続けており、寺院内には偶像はなく、信者は炎に向かって礼拝する。中国では祆教(けんきょう)とも筆写され、代には「三夷教」の一つとして隆盛した。他称としてはさらに、アフラ・マズダーを信仰するところからマズダー教の呼称がある。ただし、アケメネス朝宗教を「ゾロアスター教」とは呼べないという立場(たとえばエミール・バンヴェニスト)からすると、ゾロアスター教はマズダー教の一種である。
今日、世界におけるゾロアスター教の信者は約10万人と推計されている。インドやイラン、その他、欧米圏にも信者が存在するが、それぞれの地域で少数派の地位にとどまっている。」
《隆君註》
〇今日ゾロアスター教の影響力は歴史学・宗教学上過小評価されている。その光と闇・善と悪の二元論、終末論、最終世界到来論はユダヤ教・キリスト教の教義の源泉となっているとの見方もある。学者の語学力の欠如から研究者が少ないのが難。
〇ニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」のツァラトゥストラはゾロアスター・ザラスシュトラのことである。ニーチェはその天才的嗅覚眼力で、キリスト教の奥底に潜む女々しいルサンチマン性を嗅ぎ出し、ユダヤ教キリスト教の教義の源泉としてのゾロアスター教義を見出していた。

2014年12月20日土曜日

〇12/20(土) イラン・ザグロス山脈を行く紀行番組を見た。

NHK・BSプレミアム。太古海底にあった石灰岩の堆積層が褶曲山脈となって山頂にきている。それがイラン・ザグロス山脈。ペルシャ湾沿い。4,000m級。その山脈中に火の山がある。ひと山全体が燃えている。至る所にガスが噴き出しそれが燃えて炎を上げている。無数の炎。夜この山を見れば畏敬すべき神秘をみることになる。火の山は古代から燃え続けている。ボクは連想した。ペルシャの拝火教・ゾロアスター教はこの火の山の神秘にインスピレーションの源があるのではないかと。世界には壮大な神秘があるものかな。

〇ふなっしーに遭った。




土曜日午後一時過ぎ、NHKの軍師官兵衛の再放送を見ようとしたらやってなくて(先週の本放送は総選挙報道で中止だったせいか)ふなっしーが出現して画面一杯に暴れていた。阿川佐和子との掛け合い番組で一時間モノ。ふなっしーに興味があったので彼?を知る絶好の機会となった。あのモノの中身は男で背は高くない。頭が良くて知恵とセンスが充溢。運動能力も抜群、体操の選手だったんじゃないか。マンネリに陥らぬように喜んで貰える技術ノウハウを磨き続けている。不思議なのは相手周囲をどこから見ているのか、それが穴の空くほどその顔を観察しても遂に分からぬこと。ふなっしーの中身は実に奇特で楽しい人生観の持主が詰まっている。やっぱりふなっしーは面白い。

2014年12月15日月曜日

〇12/15(月) ナースクラブにて 〇長浜の文化財的大衆食堂

今朝、ナースクラブに落ち着いた。三か月ぶり。早速呼び出されて核医学室に身柄を取られ、自転車こぎの負荷運動で責められた。今日の目覚ましい成果。初めてスマホのテザリング機能を使ってパソコンでYOUTUBEを見た。綺麗に見える。気を好くしてこうしてブログを書いて送信しようとしている。うまく公開できるだろう。成功すれば全国どこに旅していても写真と記事をスピーディに遅れることが証明される。\(^o^)/
週末土曜日、本当に広島県廿日市市に行ってきた。M氏の強い提案。宮島に渡るフェリーの発着場の近く。「海の見える杜美術館」で竹内栖鳳展をやっていた。見応えのある展覧会だったがそれにしても遠過ぎ。宮島口の名代のあなご屋であなご飯を食べた。これもM氏の提案。長~い順番待ちに耐えた。その日はトンボ返りで彦根泊。
日曜日は、湖北観音巡りを変更して先ずは彦根佐和山山麓清凉寺へ。これもM氏の提案。彦根井伊家の菩提寺。曹洞宗。佐和山城を境内地に取り込む、井伊家から賜った。
湖北の観音様は五箇所回る予定だったが行ったのは一箇所だけ。それが高月渡岸寺の国宝十一面観音立像。他の観音巡りは、長浜に引き返しての行列のできる卵丼食事に優先されてオミット。お目当ての卵丼は昼飯時を過ぎて準備中に入りお預け。代わりに大衆食堂で親子丼と地酒。この大衆食堂の店内が文化財的に古色。注文取りの女性も古色蒼然、だが身綺麗。


↑右上・美空ひばり、右下・大川橋蔵、中上・江利チエミ、中下・市川雷蔵、左上・高田浩吉、左下・不明。
今回の旅行は完全にM氏ペースの旅行になった。ボクの旅は美味しい食事になどこだわらない。食事の優先度は低い。効率の悪い探訪行程は組まない。ボクらしい旅の趣が得られなかった。しかし寒波が襲来している中を往復1800kmも独りで運転し続けたのはM氏なんだから不服を言ってはいられない。




2014年12月12日金曜日

〇12/12(金) 近況報告

来週月曜日から一週間、ナースクラブに行ってきます。女だらけの非日常世界。金がかかる。心臓カテーテル検査。「岡田英弘著作集Ⅰ~Ⅴ」(全八巻の予定)を持ち込んで読書三昧に耽る。一週間、極楽過ぎてその後が怖い。
明日からの週末、知己らと総勢四人で湖北の十一面観音巡りを企画していたら、内一人が、広島県廿日市市「海の見える杜美術館」開催の竹内栖鳳展を見に行くと言い出し実行されることに。栖鳳の油絵が展示されるそう。廿日市は山口県境。土曜日から大寒波が襲来するそうでトホホ。土曜日午前三時七尾発、その日のうちにトンボ返りして彦根まで戻るそう。行程的には十分可能だそうだが、ボクなら直感的に無理と見て立てない計画。降雪状況をみて無理なら変更するというが、寒波が来ているのに始めから無理ではないか。日曜日に湖北の仏像巡りをして帰ってくる。五箇所ほど回る。
今年の年末年始は無宿流浪の旅の計画は立てていない。ここ六年間毎年旅に出ていたが。冬空の下、セレナの中で寝袋に包まって寝るのが、想像しただけでゾッとするようになった。正月は、家で温かい布団に包まってヌクヌクと迎えたい。気力・体力の老衰。全国走り回り過ぎて行く所も無くなったし。

2014年12月8日月曜日

〇11/29(土) 湖東「教林坊」の絵になる紅葉

↓総門、というほどの大きなものではない。

山門、というほどのものではない。
門内へ。紅葉は峠を越してしまっている。教林坊は地に散った紅葉が艶やかで風情がある。




↓観音堂
↓蔵と本坊
↓左・本坊、右奥・観音堂
本坊
観音堂
↓本坊・蔵
↓観音堂
↓本坊
↓観音堂
↓本坊
↓観音堂裏
↓本坊
 ↓この石組は古墳址らしい。赤川明神が祀られている。観音堂裏
↓本坊
↓本坊
↓観音堂