2013年10月7日月曜日

〇10/5(土)岐阜県関市「新長谷寺(しんちょうこくじ)」。空前絶後・唯一無二・言語道断の禁令「境内一切撮影禁止」。

午前九時、七尾発。東海北陸自動車道を南下して岐阜県関市へ。途中睡魔に襲われ・岐阜大和PAで昼寝。一時間熟睡。午後二時半、関市「新長谷寺(しんちょうこくじ)」に。ここを目当てにやって来た。何せ重要文化財建築物が八棟もある。到着してセレナを降り、一見して只の寺でないと分る。堂塔伽藍が素晴らしい。胸がときめく。ところが、この寺はとんでもない点で只者でなかった。「境内一切撮影禁止」の立看板をうるさいほど立てている。全国に神社仏閣は数多(あまた)あれども、こんな禁令を出している寺院は唯一無二。空前絶後だろう。全国の神社仏閣を訪ね歩いたボクが言うんだから間違いない。ボクは、小さいカメラを京都伏見の寶塔寺で壊したので、よりによって暫く眠らせていた大きい本格的カメラしかない。目立つ。それを持って入った。この寺のとんでもない点は、「境内一切撮影禁止」の立看板にあるというよりも、ボクのカメラを見て監視の目を光らせたことにある。レンズを建物に向けようものなら「撮影禁止です(`´)」やからなぁ。どうしてこんなとんでもないことをするのか?その心は、当寺は観光寺院ではありません、聖地です、という自負心にあるらしい。成程この寺院の堂塔伽藍は格別に素晴らしい、それが八棟も並ぶ境内は・この世の事とは思えないほど美しい。文化財の宝庫、目を瞠る別世界。しかしそのことが、境内での撮影行為一切を・聖なるものの冒瀆とみなして禁止する権限を寺院側に与える根拠になると考えるのは、とんでもない思い上がり・考え違いであり、奢りというもの。宝物(たからもの)を持ち過ぎると、人間えてしてこうなる。境内写真は、そこで受けた感動を半永久的に画面に定着して残そうとするもの、画像を見て・受けた感動を想い起こすよすがにしようという・ただそれだけのもの。聖地を冒瀆する行為とみるなんぞ・発想が飛躍し過ぎ。それも崇拝対象の仏像を撮影しようというのなら議論もあろうが、重文・建築物を参拝記念に撮影して写真集に残そうというだけのことではないか。もう少し・現代日本において寺院が置かれた立場というものを考えてみるべきだろう。あの境内の見事な美しさは、桧皮葺の屋根屋根の美しさに象徴されているが、要するに修復事業で支えられているのは明らか。そのための費用は莫大。莫大だが・その過半は国などの補助金で賄われる。国は・宗教施設の補修に税金を注ぎ込める筈がない(政教分離違反で違憲)。重要性を認めた文化財の維持・修復に国費の投入をするだけのこと。新長谷寺は国庫補助を返上して宗教団体独力で・あの見事な境内施設・景観を維持しているというのか。非宗教的な文化財としての観点から境内施設・景観を観られるのを否定したければ、先ず国庫補助を返上・拒否してかかること。勿論ボクは、新長谷寺でも・敬虔に如来・菩薩・明王に参拝し、その上で文化財としての建築物の値打を見分・鑑賞した。全国どこの神社仏閣でも、この文化財の見分・鑑賞の際に記念撮影をし・感動を半永久的なものに定着する努力を重ねてきた。この文化財鑑賞の一環付随行為に過ぎない写真撮影を、国庫補助を受けながら禁圧するなど言語道断(`´)。新長谷寺の住職には、原理主義者的な行き過ぎがあるのではないか。思い上がり・奢りがあるとまでは言わないが。とにかくボクには・ウラミが残った。半澤直樹なら「倍返しダ」といくところやが、こんだけこきおろしてやったからもう黙ることにするか。しかし、わざわざ関市まで出張って来て、重文・建築物が八棟もある境内を拝観して、写真集に何も残せないのでは・“流浪の画家”として名折れになる。幸い本堂内で・寺の縁起の解説パンフ¥300、絵葉書¥300を売っていたので仕入れた。パンフにも一部の堂塔伽藍の写真が載っている。観音経¥800も買った←法華経を理解するのに必要なので。それにしても・あの住職、カメラ持参の参拝客が来たら一々目を光らせ、境内の一角にレンズを向けようものなら「撮影禁止ッ」と一々取締っているんだろうか。それじゃぁ何か阿修羅みたい。
この後・夕暮れまでのひと時、関市の山中深くの「日竜峯寺(にちりゅうぶじ)」を探訪した。重要文化財「多宝塔」がある。本堂は「美濃の清水寺」と呼ばれる懸崖造り。本堂に接続して「籠り堂」があったから、この寺はその昔・修験者が集まったことだろう。新長谷寺で恨みを呑んできただけに、夕暮れ時に訪れたこの山寺・古刹の静寂な佇まいはしみじみと心に染みた。心が洗われた。勿論存分に写真を撮った。
この夜は「ひるがの高原SA」で泊まった。明日は高山市の重要文化財を探訪して帰るつもりで。

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