2013年10月10日木曜日

〇9/23(月・秋分の日)松本市・重文「田村堂」。廃仏毀釈の嵐を潜り抜けた御堂。

〇梓川に沿って上高地から松本平に下りてくると、盆地の入口に「田村堂」の案内表示が出ている。通る度に気になっていた。ので、今日思い切って探訪することに。山に入ったなりの所にある。
仁王門。ここが旧若澤寺(にゃくたくじ)の仁王門の位置らしい。
 金剛力士像
 
 阿弥陀堂
 
 仁王門、阿弥陀堂、田村堂の位置関係。
 重文「田村堂」はこの覆い屋の中に納められている。
 
  松本市文化財ホームページより
「信濃日光」若澤寺の往時をしのばせる華麗な厨子
  この堂は、現在波田地区上波田の阿弥陀堂前の覆屋(おおいや)内に収められていますが、もとは旧若澤寺(にゃくたくじ)の諸堂の一つでした。
  
若澤寺には、奈良時代に行基によってお寺が開かれ、田村将軍(坂上田村麻呂)によってさらに大きくされたとの伝承があります。江戸時代には「信濃日光」とよばれ、広い寺域を持ち、多くの参拝者を集めたお寺でした。しかし、明治時代の廃仏毀釈によって、若澤寺は廃寺となり、この時田村堂は現在地に移されました。

  
田村堂は、当初は厨子として若澤寺の建物のなかに治められていましたが、江戸時代に別の厨子が作られると、田村将軍をまつる田村堂として建物の外に置かれるようになりました。江戸時代の若澤寺の絵図にも、境内の最上段に田村堂として描かれています。

  
構造形式は桁行1間、梁間1間、一重入母屋造、屋根はこけら葺、妻入の厨子です。斗栱(ときょう)・二重扇垂木・両開きの桟唐戸(さんからど)には輪違紋や花狭間格子入となっています。建築当初は金箔が貼られ、光り輝く華麗な厨子であったと想像されます。内部には現在でも田村将軍の像が納められています。建築手法の特徴から、室町時代後期の作と推定されています。

  
昭和48年に重要文化財に指定されました。昭和40年には解体修理が行われています。

  
松本平では江戸時代より古い時期の建物の現存例が少ないなかで、田村堂は室町時代の洗練された手法が見られ、また「信濃日光」とよばれた若澤寺の当時の姿をうかがうことができ、貴重な建造物といえます。

 
 
 隣接する波田(はた)神社。
 
 
〇これで、秋分の日連休の山梨県・埼玉県・長野県無宿流浪の旅は終わり。

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