2013年4月16日火曜日

〇四国88札所霊場巡り、第84番・高松市「屋島寺」。格調高い大寺。

屋島寺の歴史・由来

屋島は高松市の東、標高293メートルの火山台地の半島で、那須与一の扇の的や義経の弓流しなどで有名な源平合戦の古戦場の史蹟で知られる。屋島寺はその南嶺にある。屋島寺は、天平勝宝のころ鑑真和上によって開創されたと伝えられる。鑑真和上は唐の学僧で、朝廷からの要請をうけ5度にわたって出航したが、暴風や難破で失明、天平勝宝5年(753)に苦難のすえ鹿児島に漂着した。翌年、東大寺に船で向かう途次、屋島の沖で山頂から立ちのぼる瑞光を感得され、屋島の北嶺に登った。そこに普賢堂を建てて、持参していた普賢菩薩像を安置し、経典を納めて創建されたという。のち和上の弟子で東大寺戒壇院の恵雲律師が堂塔を建立して精舎を構え、「屋島寺」と称し初代住職になった。

弘仁6年(815)、弘法大師は嵯峨天皇(在位809〜23)の勅願を受けて屋島寺を訪ね、北嶺にあった伽藍を現在地の南嶺に移し、また十一面千手観音像を彫造し、本尊として安置した。以後、大師は屋島寺の中興開山の祖として仰がれている。屋島寺はまた、山岳仏教の霊場としても隆盛し、天暦年間(947〜57)には明達律師が訪ねて四天王像を奉納された。現在の本尊・十一面千手観音坐像はこのころに造られており、国指定重要文化財になっている。やはり国指定重要文化財の本堂は鎌倉時代に造営されているが、寺運は戦乱によって衰退する。だが、国主・生駒氏の寺領寄進や、歴代藩主の援助により相次いで修築され、鎌倉・江戸時代の風格を現代に伝えている。

屋島寺の見どころ


蓑山大明神
梵鐘
鎌倉時代の作で、「平家供養の鐘」といわれる。国指定重要文化財。
宝物館
本堂左手前の近代的な美術館。本尊をはじめ、源平盛衰記絵巻物、「源氏の白旗」、屋島合戦屏風など豊富な寺宝が保存・展示されている。
蓑山大明神
本堂の右。四国狸の総大将「太三郎狸」と呼ばれる土地の氏神。子宝、縁結びや家庭円満などの神さま。


第84番「屋島寺」に行こうとしたら、意外にも有料・屋島ドライブウェイに入った。海抜二百数十mの山上大駐車場に入るとまた駐車料金を徴収された。それが高いッ、600円ほどでなかったか。しかも土産物店や水族館があるばかりで肝腎の屋島寺が見えない。頭に来て戻ろうとして土産物屋の遠く奥にある寺の建物らしくない建造物が何であるかだけでも確かめてからにしても遅くはあるまいと思い直して訪ねてみると、そこに↓この門があった。屋島寺の裏門。

 左端に本堂。右手に御堂が3つ並んでいる。
 左から四天門、鐘楼、宝物館。
 三つ並んでいる御堂の一つ目、千体堂。千体観音か千体地蔵が安置されているに違いない。
 三体堂。本尊と両脇侍像が祀られているんだろう。
 大師堂。

 三堂の前を過ぎて奥に突き当たると、熊野権現社がある。神仏習合・修験道の名残だろう。
 屋島稲荷社
 ↓ 蓑山塚。その由緒は下記。
 「その昔、弘法大師さんが四国八十八箇所開創のみぎり、霧深い屋島で道に迷われ蓑笠を着た老人に山上まで案内されたという。後にその老人こそ太三郎狸の変化術の姿であったと信じられております。屋島の太三郎狸は、佐渡の団三郎狸・淡路の芝右衛門狸と共に日本三名狸に称されております。太三郎狸は屋島寺本尊千手観音の御申狸(おんもうしだぬき)又数多くの善行を積んだため、土地の地主の神として本堂の横に大切に祭られ、四国狸の総大将としてあがめられ、その化け方の高尚さと変化妙技は日本一であった。尚屋島太三郎狸は一夫一婦の契りも固く家庭円満・縁結び・水商売の神特に子宝に恵まれない方に子宝を授け福運をもたらす狸として全国よりの信者が多い」
 左が太三郎狸、右がその女房。太三郎狸の左横に子宝・狸もいる。
 本堂・重文。
 本堂の横に太三郎狸がいる。
 本堂・内陣。
 本堂から見た四天門。左に鐘楼。
 四天門
 内側の二天像

 四天門を外側から見る。
 外側に立つ二天。

 仁王門。
 仁王門前から山下まで続く表参道。屋島ドライブウェイが開通しない時代はこの参道を登ってきたに違いない。ゾッとする。
 仁王像

 仁王門から四天門を見る。
 四天門から本堂を見る。
 本堂から見た境内。右から鐘楼・裏門・千体堂・三体堂。
 本堂。格調が高く、美しい。
 本堂・外陣。
 手前から大師堂・三体堂・千体堂と並んでいる。
 不動明王石像。
 左・五重の石塔、右・鐘楼。ここに往年五重塔が建っていたとボクは思う。
屋島寺で心残りは、夕方で宝物館の閉館時刻が迫っていたので入らなかったこと。本尊・重文はナントこの中に安置されていたそう。てっきり秘仏で拝顔できないと思い込んだのがいけなかった。宝物館が開かれていればとにかく入り込むこと。

 

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