2012年10月3日水曜日

〇日本仏教は釈迦の教えと全然違う(四)

奈良時代は南都七大寺・大乗仏教の全盛期だった。桓武天皇は南都の大寺の権勢から自由になるため長岡京、次いで平安京に遷都した。平安時代は、比叡山延暦寺と高野山金剛峰寺が仏教界の覇権を制した。密教の時代と言っていい。護摩を焚き加持祈祷に励んだ。護摩・加持祈祷の本山は空海の開いた高野山だったが、比叡山も最澄の弟子たちが密教を中国に学んで導入し天台密教を大成した。比叡山はさながら仏教総合大学の趣を呈した。中心教学は法華経学であり・悉皆有仏性を旨としたが、浄土教学を研究する者あり、禅宗学を専修する者ありと実に多彩だった。真言密教・高野山は真言・秘儀を修得して即身成仏することを旨とした。平安中期からは浄土教も隆盛となった。仏教は平安時代末期まで国家・貴族のための宗教だった。それが、有力武装農民・武士が天下を握り鎌倉時代に入ると仏教界に革命が起きた。仏教は庶民にも普及した。比叡山を下りた学究僧達が現代にまで系譜を引く有力な宗派をそれぞれに開き庶民を導いた。以下の開祖はいずれも比叡山で学究修行を積んだ高僧である。
①法然・親鸞―浄土教・浄土真宗。②栄西・道元―禅宗(臨済宗・曹洞宗)。③日蓮ー法華宗(日蓮宗)。
北陸地方は何と言っても真宗王国・浄土教。そこで法然上人の話から。「上人・聖人(しょうにん)」という称号は、正式に受戒していない私度僧(勝手に僧になっている人)の中で高徳・徳望の篤い僧をそう呼ぶ。法然は普通「上人」と呼称されるが本当は比叡山で若いうちに正式に受戒し国家公認の正式僧だった。が、浄土教に嵌り衆生救済を悲願として山を下りるときその地位を捨てた。それで以後法然上人と呼ばれるようになった。浄土教は阿弥陀三部経を根本経典とする。他の経典は殆ど無視する。如来は彼岸の阿弥陀仏のみ。阿弥陀如来の衆生救済の悲願におすがりする一神教。如来の使者として此岸で観音菩薩・勢至菩薩が活躍する。阿弥陀如来の慈悲にすがる方法は「南無阿弥陀仏」と称えるだけ。称名だけで阿弥陀如来が観音・勢至両菩薩をこの世に派遣して下さる。この点、日蓮宗も「南無妙法蓮華経」とお題目を称えるだけで法華経に約束された救済を受けられるというのと似ている。とかく鎌倉仏教は安直さが売り。庶民でも仏教世界に簡単に入れるようにした。しかし阿弥陀経に説いている「念仏」とは本来は仏を心に念(おも)うことで、比叡山・三昧堂では阿弥陀経・浄土教の念仏の仕方を研究し修行してきた。三昧堂での念仏修行は半端じゃない。この堂の隣で坊を構え浄土教・阿弥陀経を研究したのが親鸞上人。彼は、法然の浄土教を教義的・理論的に徹底し遂に行き着く所まで行った。続く

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