2012年9月27日木曜日

〇日本仏教は釈迦の教えと全然違う(二)。般若経・龍樹、富永中基。


釈迦教団は、釈迦の教えた戒律を厳守し・釈迦の示した修行の段取り方法を踏襲し、悟りを開き煩悩から解放され、涅槃の境地に入って輪廻から解脱することを目標とした。釈迦仏教には、通奏低音として無常観が流れ・光芒として大慈悲が溢れていた。が、釈迦教団は修行のための修行教団に堕して行ったと思われる。AD150年前後になると北インドに「般若経典」が雨後の筍のように出現した。今日残る大蔵経典の中に各種「般若経典」が600巻も存在する。般若は漢訳すれば智慧にあたる。この世を「空」と観る世界観が示され、この世で衆生を救済する悲願を立てた菩薩の行が示される。大乗仏教の勃興である。そして天才・龍樹が北インドに登場する。彼は釈迦の無常観を発展させた「空」論と釈迦の神髄をなす「慈悲心」に基づき大乗仏教を集大成した。龍樹の「空」論は、現代の分子生物学者・福岡伸一氏の「生命の動的平衡」論によく似ている。「行く河の流れは絶えずしてしかも元の河にあらず」。物事は、それ自体というモノはなく相互依存によって成り立ち常に転変する。龍樹はまた釈迦の大慈悲から演繹して彼岸に如来・此岸に菩薩が衆生救済のために大活躍する大乗仏教の壮大な構想を樹立した。龍樹の大乗仏教は北上を始め、西域に入ると東進して中国に入り、朝鮮半島を経由して遂に日本に到達した。西域でも独特の経典が作られ加わえられたと思われる。そして日本で独自の日本仏教が鎌倉時代に至り成立する。日本仏教の成立には大前提があった。即ち諸々の仏教経典は釈迦の教説そのものであることを疑わないという前提。この大前提を根底から疑う文献学の天才が江戸時代中期に出現した。富永中基(とみながなかもと)。大阪商人の息子。彼は独自に開発した文献学的手法により仏教経典に批判を加え、大蔵経典はすべて釈迦の教説ではなく、時代を経ながら沢山の思想家の思想が雪が降り積もるように加上されてきたものであることを解明した。この説によると妙法蓮華経(法華経)は釈迦の最終最高完璧な教説の経典たる地位を失い天台宗・日蓮宗は立場を失う。富永中基は、経典はすべて(たとえ方便として説かれたものであれ)釈迦の直説(じきせつ)と信じて疑わなかった仏教界を肇とする世間の爪はじきに遭い不遇の中に埋もれ死んだ。亨年三十二歳。その後、富永中基の著作は埋もれたまま誰の目にもとまらなかった。それを発掘したのは、京都文科大学(京大文学部)教授・内藤湖南。
次回は、日本仏教の独自性・特殊性について。

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