2012年9月12日水曜日

〇山本周五郎「正雪記」を読む。

ボクの青少年時代、山本周五郎の著作はよく読まれた。当代一と言ってよかった。「大衆文学」作家のレッテルを貼られていた。大衆文学とは、時代物を扱った格調の低い二流文学と言う訳だった。それに対し、「純文学」作家と称されそう自認する一群があった。その作品は「私小説」と呼ばれた。これぞ格調高き一流文学だと言う訳。扱うテーマは主に書く本人の生き様とその内面。心理描写の・文才が紡ぎ出す言葉の体系こそが最高の文学と言う訳。純文学とは純粋な文学のことらしい。純粋文学という言葉自体が発散する鼻持ちならぬいかがわしさ――それに鈍感ではどうしようもない。私小説作家と自認して衒いもないその心根は文学者のそれから遠い。と、青年時代のボクは感じていた。山本周五郎の作品で青年時代に読んだものと言えば「青ベか物語」のみ。しかしその面白さと文体の心地好さは今も胸に残っている。それで壮年時代に山本周五郎の文庫版全集を買い揃えてずっと積読(つんどく)しておいた。全61巻。最近その中から一冊を取り出して読んだ。「正雪記」。分厚くて苦労したが面白かった。結局山本周五郎の作品は残った。しかし純文学作品で今も残って読まれているものはどれだけあるだろうか。読んで詰まらないモノは所詮読まれなくなる。当たり前。今、文学文芸評論家で、純文学こそ一流の文学で、大衆文学は二流だなどと論ずる者はもういないだろう。潮流を変えた功労者は、松本清張と司馬遼太郎だろう。松本清張は圧倒的な文筆力で新分野を開拓し続けて大衆文学の観念を粉砕した。司馬遼太郎は時代小説を書きながらその格調の高い見識と文体で大衆文学の概念を軽く乗り越え純文学の詰まらなさを浮き彫りにした。今思えば、純文学作家・私小説が幅を利かせていた時代の文学の水準が二流か三流だった。今は日本の文学も一流の文学になったんじゃないか。翻訳されれば外国人にも受け容れられる作家・作品が既に相当存在する。

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