2012年9月29日土曜日

〇久々に裏手の鷹合川の土手を散策。すっかり秋ぃ(゜o゜)

カルガモ達はすっかり成鳥になっている。羽ばたいたら綺麗な青が覗いた、カワセミのブルーに匹敵する。
百日草の花。炎熱下でも咲き続けたが、遂に力尽きるか。秋。
鯉の群。
食欲旺盛。
いつしか周囲は秋の装いに変わっていた。瞬く間に冬が来る。

〇9/29(土)、七尾市「海門寺」の「千手観音坐像」が国重文に指定された。

〇七尾市太田町(七尾火力発電所の近く)海門寺の千手観音坐像がこの度国から重要文化財に指定された。それを記念して今日明日(土・日)と特別開帳される。普通は33年に一度の御開帳。喫茶店エストで一服していたら、店主が海門寺に祝儀を持って行くため車を出すというのでそれっとばかりに同乗した。
海門寺は曹洞宗の寺。「海門禅寺」が正式名称らしい。
山門
本堂。本尊は釈迦如来。
本堂の中、本尊の向かって左端に千手観音坐像がおわす。厨子の扉は33年間に一度だけしか開かれない。今日は重文指定を祝って特別記念に開かれている。

参詣受付の人から分けて貰った重文・千手十一面観音坐像の写真。座高は約65cm。
〇特筆すべきことがある。写真撮影が全く自由に許されたこと。ボクの持論は次の通り。
・仏像とは偶像であり、仏像を刻ませた仏教は偶像崇拝宗教。
・偶像とは目に見えぬモノを見えるように象徴化したもの。偶像化しておいて秘仏にして隠すとは、その根性を突き詰めると実にさもしい。
・開帳された仏像の写真撮影を禁止する根性もさもしい。
・仏像は堂々と公開し、撮影は仏像保護のために必要な一定の制限の下に自由化すべし。
この精神からゆくと、今日の海門寺のとった撮影に対する大らかな姿勢は実に好かった。願わくば重文指定をきっかけにこれまでの秘仏化などというさもしい措置もすっきり廃止したらいかがでしょうか。

2012年9月28日金曜日

◇夏目漱石「明暗」を読んで。

最近漱石の「明暗」を読んだ。文庫本で670P程の大冊で読了に日にちを要したが、途中から面白くなって苦も無く読めた。大正5年朝日新聞連載小説。漱石が連載途中で病没して絶筆となり未完成作品として残った。漱石の書いた最長編の小説。
主人公・津田由雄の性格ははっきりしない。漱石はわざとそのように性格設定して書いている。対照的に、新妻・お延、妹・お秀、由雄を一年前に捨てて関と結婚した清子らの性格は鮮明で、由雄の優柔不断が浮き上がる。三人の女の性格・心理・言動の描写は、漱石の天才的眼力・筆力をもってして初めて好く成し得るところで、それを味わえるだけでも大層な値打ちもの。清子が流産して静養中の温泉旅館で由雄と再会したところで物語は断末となる。この後物語がどう展開して終結するかをお節介にも明暗の続編として小説化した作家もいるという・どうしても未完のままでは済まされない・作者の死後も独り歩きする力を秘めた未完作品。
水村 『続明暗』 筑摩書房、19909月。漱石の文体をそのまま模し、未完となった『明暗』のその後を描く。芸術選奨新人賞受賞作。←この作品は取り寄せて是非読もう。他にも「明暗」のその後について執筆している人が幾人かいる。

2012年9月27日木曜日

〇日本仏教は釈迦の教えと全然違う(二)。般若経・龍樹、富永中基。


釈迦教団は、釈迦の教えた戒律を厳守し・釈迦の示した修行の段取り方法を踏襲し、悟りを開き煩悩から解放され、涅槃の境地に入って輪廻から解脱することを目標とした。釈迦仏教には、通奏低音として無常観が流れ・光芒として大慈悲が溢れていた。が、釈迦教団は修行のための修行教団に堕して行ったと思われる。AD150年前後になると北インドに「般若経典」が雨後の筍のように出現した。今日残る大蔵経典の中に各種「般若経典」が600巻も存在する。般若は漢訳すれば智慧にあたる。この世を「空」と観る世界観が示され、この世で衆生を救済する悲願を立てた菩薩の行が示される。大乗仏教の勃興である。そして天才・龍樹が北インドに登場する。彼は釈迦の無常観を発展させた「空」論と釈迦の神髄をなす「慈悲心」に基づき大乗仏教を集大成した。龍樹の「空」論は、現代の分子生物学者・福岡伸一氏の「生命の動的平衡」論によく似ている。「行く河の流れは絶えずしてしかも元の河にあらず」。物事は、それ自体というモノはなく相互依存によって成り立ち常に転変する。龍樹はまた釈迦の大慈悲から演繹して彼岸に如来・此岸に菩薩が衆生救済のために大活躍する大乗仏教の壮大な構想を樹立した。龍樹の大乗仏教は北上を始め、西域に入ると東進して中国に入り、朝鮮半島を経由して遂に日本に到達した。西域でも独特の経典が作られ加わえられたと思われる。そして日本で独自の日本仏教が鎌倉時代に至り成立する。日本仏教の成立には大前提があった。即ち諸々の仏教経典は釈迦の教説そのものであることを疑わないという前提。この大前提を根底から疑う文献学の天才が江戸時代中期に出現した。富永中基(とみながなかもと)。大阪商人の息子。彼は独自に開発した文献学的手法により仏教経典に批判を加え、大蔵経典はすべて釈迦の教説ではなく、時代を経ながら沢山の思想家の思想が雪が降り積もるように加上されてきたものであることを解明した。この説によると妙法蓮華経(法華経)は釈迦の最終最高完璧な教説の経典たる地位を失い天台宗・日蓮宗は立場を失う。富永中基は、経典はすべて(たとえ方便として説かれたものであれ)釈迦の直説(じきせつ)と信じて疑わなかった仏教界を肇とする世間の爪はじきに遭い不遇の中に埋もれ死んだ。亨年三十二歳。その後、富永中基の著作は埋もれたまま誰の目にもとまらなかった。それを発掘したのは、京都文科大学(京大文学部)教授・内藤湖南。
次回は、日本仏教の独自性・特殊性について。

2012年9月26日水曜日

〇長野県木曽谷・大桑村で見た中央アルプス(木曽山脈)「空木岳(うつぎだけ)


木曽谷南木曽町「日立」の在所を出立したのが午後5時。大桑村にかかったのは5時半頃か。この後ひたすら帰路を辿った。塩尻から朝日村・山形村を通り、島々から奈川ダム・安房トンネル・平湯を経由し、神岡から飛騨街道を北上して富山に出、北陸道をちょいと使って小杉で下り、高岡・氷見を経由して荒山峠越えで七尾に戻った。午後11時。日立の滝探訪の疲れは一晩の休息でとれそうもない。

〇木曾の魔の谷で死にそうになる。「日立の滝」探訪(二)



「洗心の滝」は、小滝が幾重にも連なっている。



↓ 川原
↓ 崩落

↓ 川原
↓ これでも道かッ(`´)



↓90°引き起こして見ること。

90°寝ている。




90度引き起こして見ること。「霧ヶ滝」

↓「霧ヶ滝」の落下地点から滝下を見ている。

「日立の滝」の主滝、「天河滝」に着いた。


↓ 「この天河滝の上流約1.5kmにある丸淵までの間は、不動滝・たつが瀬・かくよく滝・そうめん滝・箱淵等の大小さまざまな形の滝と瀬が続き見事な渓谷美をなしております。‥‥」
とあるが、もう夕方だし、体力とくに脚力の限界だし、ここで見切りをつけて引き返すことに。
↓ 帰路。また「霧ヶ滝」の落下口に立つ。




途中にある谷水の湧き口。ここで一服して筒先から出る清水を飲んだ。行きは手で三掬(きく)、戻りは二掬。戻りに減らしたのは、自然水なので腹を壊す惧れがあると思い控えた。わざわざ筒で誘導して水を飲み易いようにしてあるので、ここは水飲み場だろうと考えて飲んだんだが、本当に有難かった。この水飲み場がなければ、ボクはこの谷で死んでたかも‥腹具合は大丈夫だった!(^^)!

〇長野県南木曽町で木曾の魔の谷に入り込む。「日立の滝}(一)

〇滝谷の入口で道が二又になっている。先ずは滝の真下にセレナを乗りつけられる方へ。

↓ 本流の谷に入る。

↓ 川原。大石がゴロゴロ。どうしてこんな大石で流域が埋め尽くされているのか、分らない。この谷は只者ではない雰囲気。

この案内板は、上の図の解説。





上流へ、上流へと谷道は登り傾斜をつけながら続いて行く。
↓ 「不動岩」が展望できる。

ナント!! 桟道が出現(゜o゜)


 ↓この写真、90°引き起こして見ること。




螺旋(らせん)滝を見るために、数十メートルの崖を枝や岩角に掴まりながらずり降りた。この昇降で一気に足が疲れた。

↓これはほぼ真上に向かって登っている。


独りでも不気味に揺れる。吊り橋。