2011年6月30日木曜日

6/30(木)「彩の会」で一枚目を完成。モデルさんに進呈


光線の具合によってこんなにも写りが違う。上の写真の方が実物に近い。来週からは油絵で描くつもり。

6/30(木)かわいいオバアチャンが我家に登場

女房の母親が家族になった。御齢86歳。我家の娘達3人が居なくなって夫婦水入らずの生活になってから久しい。吾輩の両親はとっくに逝き、女房の父親も逝き、親で残るのは小松の母親のみだった。小松のオバアチャンと呼ばれる。オバアチャンは小松の田舎の家で独り暮らしを続けてきた。子供達の世話になるまい、迷惑をかけまいの一念から。しかし老衰は必然、それとともに独居生活の無理は歴然としてきた。記憶力が落ち食欲が落ち、最後は菓子パンを齧って日を過ごしていたらしい。痩せ衰えて一種の飢餓状態。その姿を見て吾輩は息を呑んだ。見る影もなく悲惨。遂に子供達は相談し能登病院に半強制的に検査入院させ、その後三月(みつき)ほど前から我家の住人となった。我家に登場してからのオバアチャンは明るく元気。三度の食事をきちんと摂りながら何度も言う、「みんなと食べると美味しいねぇ」。風呂場から女房(長女)が「おばあちゃ~ん」と呼ぶと、「はいはいハイハイ」と駆けつける。長女が背中を流してくれるらしい。かくして飢餓地獄から地蔵菩薩に救済されてきたばかりのような悲惨な姿に見えたオバアチャンが、見る見るかわいいオバアチャンに変身した。
吾輩はつくづく思う、家族って大切なもんやなぁ。

2011年6月29日水曜日

6/29(水)人気が少し出てきた。特集も組もう

神社仏閣探訪記ばかりでは人気が出ないようなので、バラエティ風に記事を仕立てるよう心掛けたら段々人気が出てきた。調子に乗って特集記事も組んでみようと思う。すでに遊行してきた名所旧跡を整理してみるだけでも結構特集記事が組める。例えば「西国33箇所観音霊場」巡礼記。初めから意図していた訳ではないが、いつしか33の観音霊場を全部周り切っていた。例えば「国宝十一面観音像」全七体参拝記。こちらは最初北近江高月町の渡岸寺(どうがんじ)観音堂で国宝十一面観音像に会って感動した時から、国宝全七体を拝顔する願を立てた。吾輩の感動したモノ特集ってのも好いかも。この秋の終わりまでに実現したいことがある。吾輩選の「能登百景」写真記事をブログで公開すること。今吾輩は全国を走り回り故郷の能登半島なんぞ目じゃないようにしているが、若い頃は能登の海山に随分馴染んだ。どこにどんな風景風物があるか、目を瞑れば掌にあるように浮かんでくる。百景となるとなかなか大変だが、直観的にそれ位は絵になる風景がある。期待して戴いていいんじゃないか。隆くん選「能登百景」を残して逝くというのは、ウン、なかなか好い企画だ。「能登八景」位なら油絵にして残せるかも。

2011年6月28日火曜日

2006/1、愛知県「豊川稲荷」

家族旅行で愛知県豊川市「豊川稲荷」に参詣した。日本三大稲荷と言えば、一に伏見稲荷、二に豊川稲荷と指を折るところまでは異論がなかろう。三番目が難しい。吾輩の見分では、佐賀県武雄市の「祐徳(ゆうとく)稲荷」と岡山県の「最上(さいじょう)稲荷」が自称自薦していて甲乙つけ難い。以下の写真は「豊川稲荷」。神社か仏閣か全く分別がつかない。
↓ 表参道
本堂・本殿

↓ 本堂・本殿から表参道を眺める。

↓ 裏参道


この後もう一度女房と夏に探訪したことがある。詳細に撮影したはず。その写真が出てきたら報告します。

6/28(火)呆れ返った浜田和幸参院議員の政務官就任と自民党離党

これほど呆れ返った人事と国会議員の行動は珍しい。浜田和幸参院議員の行動は総務政務官というポストに釣られただけ。選挙区島根県の選挙民を裏切っている。本人は、選挙民は自民党ではなく浜田和幸を選択したと驕っている。菅直人の思惑は悪魔的。国会運営が行き詰まることは百も承知。結果、勝手に設定した首相退任三条件が成就されない事態になれば、それを口実に当然居坐る。彼の本心は、自らの手で解散出来るチャンスが来るまでの何としてもの延命。解散権を行使してこそ歴史に名を残す首相となる。三木武夫首相の三木降ろしの嵐を掻い潜った粘り腰の先例を研究している。この人事の黒幕は亀井静香。彼は小泉純一郎の郵政改革に一矢報いなければ死ねない。郵政反改革法案を成立させるのが悲願。そのチャンスは、民主党・国民新党が衆議院で三分の二超の議席を有する今しかない。そして恩を売ってある菅直人を延命させるしかない。菅直人首相が早々に退陣してはその目が潰れる。しかし亀井静香の戦略は体をなしていない。復讐心が勝ち過ぎる。それにしても浜田和幸という男は情けない。永田町という狭い異様な世界に嵌っていると、凡人は出来が悪くなると見える。

2011年6月27日月曜日

2006-1 箱根・旧東海道杉並木

2006/1、家族旅行で伊豆方面を訪れた。女房が「お父さん、見たい所なぁい?一箇所だけ」と言ったので、旧東海道杉並木を挙げた。行ってみると国道1号線の箱根越えは、阿蘇外輪山を内に下るような急坂曲り道の連続で迫力満点。箱根大学駅伝の走者は大変。
↓ 芦ノ湖に到着。富士山が霞んで見える。
芦ノ湖畔から見た箱根駒ヶ岳。
本当に「旧街道杉並木」が残っていた。感動した。東海道は以前は「湯坂道」を通っていたが、徳川幕府成立直後に芦ノ湖畔を経由する道に変更された。幕府は新しいルートの両側に、旅人に木陰を与えるために杉並木を植林した。その一部が残されている。この道が往年の東海道そのものだと思って歩いてみるだけで心が躍る。



杉並木の東端は、国道1号線に沿っている。

2011年6月26日日曜日

6/26(日)仏縁「ネルケ無方」師、兵庫県「安泰寺」

週末金曜日、事務所の山崎さんから旅費をせしめたが、梅雨前線が北陸地方に停滞し大雨を降らせていたので出掛ける気にならず家に居た。日曜日早朝目が覚めたのでTVを点けたら、画面一杯に外国僧の座位姿が映し出された。背筋がピンと伸び、脚は結跏趺坐。絵になっている。面相も好い。余程修行の出来た禅僧らしい。名は「ネルケ無方」師。ドイツ人。若くして来日し修行を積んできたそう。修行の意義を見失って何度も山を下りたり、ホームレス僧になったりして、今は事故死した先師の後を継いで「安泰寺」住職。言うことも違う。世襲の大概の惰性僧・堕落僧とは格が違う。菩薩行に入っている。週末旅行に出ていたら、この僧の存在を知ることなく吾輩は死ぬことになった。これも仏縁。しかし縁は、本当のところとっくに与えられていた。購読している新潮社季刊誌「考える人」の今春季号の表紙写真が実はこの「ネルケ無方」師だった。同誌冒頭取材記事もこの僧についてのもの。このような人間もいてこのようにしてある、そう感慨をもって言うしかない。それにしても週末旅行に出なくて好かった。今週末から高速料金上限1000円制度が撤廃されていることをうっかりしていた。頭に来て帰って来るのがオチだった。

2011年6月25日土曜日

6/5(日)新薬師寺・国宝「バサラ大将像」は往時極彩色に輝いていた

この写真は、新薬師寺で購入した絵葉書の引用だが、往古の十二神将像はすべて、この「伐折羅(バサラ)大将像」の様に極彩色に輝いていて見る者の目を奪ったと思われる。CGによって三次元デジタル化し、天平時代の彩色を再現している。
↓ 現在のバサラ大将像(絵葉書から引用)。千二、三百年の歳月が流れている。

本尊薬師如来・国宝は往時、金色に光り輝いて、極彩色の十二神将に囲まれて坐っていた。当時の金堂内陣の光景は想像するだに眩い。
(写真は「古寺巡礼奈良10新薬師寺・淡交社」から引用)

6/5(日) 奈良「大安寺」

大安寺は日本最古の寺の一つ。その縁起はゆかしい。先ず聖徳太子が平群の地に「熊凝精舎」を建立。遺言でこの一院を国の大寺にするよう、舒明天皇に託す。天皇は日本最初の官寺である「百済大寺」を建立。次いで飛鳥藤原京で「高市大寺」になりさらに「大官大寺」になった。そして平城遷都に伴い現在地に移されて「大安寺」となった。南都七大寺の一つ。
↓ 南大門
南大門を潜ると、傍に往古の南大門の礎石跡を示すモニュメントが置かれている。奈良時代の南大門の壮大さが想像できる。当時、南大門の前(南)には、東塔と西塔が建っていた。七重の塔だった。 南大門を潜ると目の前に、奈良時代の中門の位置を示す石碑が立っている。石碑の背後の林の中に立っているコンクリート建物は讃仰堂(宝物殿)。
讃仰堂・宝物館に入館。以下の仏像写真はいずれも大安寺で購入した絵葉書を引用。
↓楊柳観音像頭部・重文、天平仏
↓楊柳観音像・重文、天平時代
不空羂索観音像・重文、天平時代
聖観音像・重文、天平時代
広目天像・重文、天平時代

多聞天像・重文、天平時代

境内西方面。本堂が見える
本堂
本尊・十一面観音像・重文、天平時代
護摩堂

小子坊・写経道場

嘶(いななき)堂。馬頭観音が祀られている。

千手観音像・伝馬頭観音像・重文、天平時代

2011年6月24日金曜日

6/24(金) 単細胞生物と高等生物の間

高等生物と単細胞生物は全く別モノの様に見える。が、その間には一つの単純な原理があるだけ。
単細胞生物も高等生物も、生命の基盤が細胞にあることは全く同じ。高等生物とは多細胞生物のこと。ところで細胞の始まりは、酸素と栄養に恵まれた海の中で海水の微量を膜で囲って独自の環境を作り出したことにある。細胞膜が形成されたとき、生命誕生の第一歩が踏み出された。その前に、光エネルギーが海面近くでアミノ酸(単純な蛋白質)を多種類合成し、漂うアミノ酸の密度が増したとき、アミノ酸が種々に結合して様々な形態の大蛋白質が形成されるという前史があった。大蛋白質の中に、囲って閉じる形態のものが発生した。それが細胞膜。細胞膜内の環境が一定の平衡状態に保たれるようになったとき、それを生命誕生という。誕生した生命を細胞という。細胞が分裂能を身に着けたとき、細胞は単なる個体から種族になった。細胞は当初分裂する毎に分かれた。分裂しそしてそれぞれが自立した個体になった。が、そのうち分裂しても別れずに集合化していく細胞分裂が生じた。分裂しそしてくっ付いたまま膨れていく。しかし無限大には膨れない。内奥に取り残された細胞は酸素と栄養に恵まれず死滅する。内部の細胞も生きていける構造として内腔が形成された。内腔だけでは酸素・栄養に恵まれない細胞を生かすために血管・血液細胞が生じた。内外の情報を伝えるために神経細胞が生じた。骨組みを作るために骨髄細胞が生じた。そして無用の細胞には酸素・栄養が供給されず死が与えられた。こうして細胞が組織化され、高等生物化した。単細胞生物から高等生物へと進化するためにはただ一つの原理があった。単細胞が分裂しても分離しない性質の単細胞・細胞膜の出現。人間は超多細胞の生物であるが、ただそれだけのものと言えばその通り。単細胞生物と高等生物の間は一瀉千里。

2011年6月23日木曜日

6/23(木)彩の会でモデルを描いてきた。少女像

疲れていて集中力が出なかった。この絵は、次回で終わり。

6/23(木)梅雨入りではないか。花菖蒲の季節。

ムシムシと暑い、時折雨も降る。北陸も梅雨入りではないか。
五月にアヤメが咲いていた裏の土手道に、似た様な紫の花が開いた。
↓ 花弁の基部に黄色の線状マーク。∴これは「花ショウブ」。線状マークが白いと、それは「カキツバタ」。基部に文目(あやめ)紋があると「アヤメ」。
↓ 羽黒トンボが今日から一斉に羽化して飛び回り出した。コヤツらはジメジメした藪蔭を好む。羽化記念に撮影。

2011年6月22日水曜日

6/22(水)裏の鷹合川にナマズのいる証拠

七尾市国分町の事務所裏の鷹合川に鯰が生き残っている証拠が挙がった。 ↑ 土手道を歩いていると、白い腹を見せる鯰の死骸が浮いていた。

↑ 喫茶店「エスト」の孫娘の協力を得て引き上げた。腐臭がした。鯰髭とデカ口が特徴的。どう見てもナマズ。 それがどうしたと言われたら、おしまい。
↓ 爽やかな映像も紹介。糸トンボが、土手の草叢に無数に飛び交っている。

6/22(水) もう夏至だとは、驚きッ(゜o゜)

今日は夏至だそう。えっ、とビックリ。年末年始旅行で西海・長崎に行き、冬日の短さに嘆息していたのがつい昨日のよう。長崎で大雪に祟られた思い出が強烈。それがもう夏至。死亡予定年齢70歳まで幾ばくもない余命の半年分が消えた。この調子じゃあ70歳はまるで近い、冗談抜きに。好きな道に奔走する、その入れ込み度を加速させないととても間に合わない。目標は、日本全土の風景・文化財で見るべきほどのモノはすべて見る。最後に、描きたいと思った絵を描いて死ぬ。それにしても余命は5年半。この半年、あっと言う間に過ぎ去ったこの半年を11倍に引き伸ばした時間しか吾輩はこの世にいない。その短さに愕然とする。時間の無駄使いは許されない。が、健康面に問題が出てきた。糖尿病・高血圧・動脈硬化・狭心症の方は節度ある生活をしているので小康を得ている。問題は貧血。血液検査の結果は悪化に傾き出した。裕先生は胃腸の検査が必要と言うのだが。立ち上がるのが辛い。立ち上がるとフラフラする。旅に出て山寺の坂道を登るときなど、辛くて死んだ方がマシという気になる。この齢じゃ、時間の有効活用の道は辛くて厳しい。吾輩の理想の死に方は、絵の道具を担いだまま路傍に倒れて死ぬこと――この理想に少し近づいた気はするんだがf^_^;。

2011年6月21日火曜日

6/5(日) 奈良市「新薬師寺」

南門・重文 鐘楼・重文
地蔵堂・重文
本堂・国宝
↓ 本堂内の仏像群。すべてがこれ、国宝。
国宝・薬師如来坐像(「日本の仏像No24・新薬師寺」講談社から引用)。黒目が大きいのが異様。
以下、十二神将像(いずれも「日本の仏像N024・新薬師寺」講談社から引用)、いずれも国宝












不動明王と二童子像・重文
十一面観音像・重文