2011年5月5日木曜日

5/5(木) 吉野ヶ里遺跡、田原坂、熊本城

午前中「吉野ヶ里遺跡」へ。東背降ICで下りて南へ直線で4kmで着く、分り易い。「南の邑」と「倉と市」の部分に絞って探訪、前回時間がなくて見れなかった部分。特に「倉と市」の区画は念入りに探訪。吉野ヶ里は果たして国と言えるものであったか、そのためには、生産・集散・消費蓄積の経済がなければならない。それを見分する必要があった。市場と倉庫群、これが存在していた。吉野ヶ里は周辺の広大な土地と民を支配する王国の要塞だったとみてよかろう。
午後南下して熊本県植木の「田原坂」へ。西南の役の激戦地、そして戦勢のターニングポイント。薩摩軍はここから東の山中に敗走し山道を南下して故郷を目指したが、敗軍は時の経過と共に軍隊の体をなくし、西郷は最後側近だけに守られて鹿児島の城山に辿り着いた。そしてそこの洞穴で「もうよか」と言って自決した。武士の世に引導を渡す役目を買って出た生涯とも言える。田原坂には現地でそう易々と到達できない。平凡な丘陵地帯でどうしてここが決戦場になるのか分らない様な所。吾輩は探訪にお手上げ状態になり、交番に駆け込んだ。若い警察官が二名、親切に教えてくれた。警察には今回の旅で色々とお世話になった。田原坂の記念館は収集展示品が充実していて一見の価値がある。
熊本城探訪。西南の役当時は熊本鎮台府が置かれていた。薩摩士族軍が先ず血祭りにと攻略にかかったが微動だもせず諦めて主力軍を北上させて田原坂へ。薩摩士族軍は、農民・庶民からなる鎮台兵や田原坂に南下集結してきた官軍兵を舐めていたが、最新装備で武装し軍隊調練も行き届いた国民兵は強かった。士族・武士が軍人である時代は終わっていた。熊本城は加藤清正が普請した城塞。規模は壮大で石垣は天嶮のように聳え立つ。設計思想は、攻城を初めから断念させるところにあろう。旧式兵器で挑みかかった薩摩士族軍には攻略は到底無理だった。清正に普請(土木)の才能があったというのは本当だろう。さらに田原坂という平凡な丘陵が主戦場になったのも、清正が北方から軍隊が熊本城に押し寄せて来るときに通れる道を田原坂丘陵に一本化していたせいだというから、清正は武略家として超一流。前に熊本城を訪れたときよりも作事(建築)が相当進み充実したように感じた。絵になる城。
夜は阿蘇の麓の道の駅で一泊。

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