2010年12月23日木曜日

2010/12/23(木)、年末年始の旅に出た。近江神宮、伏見稲荷大社、石清水八幡宮、山崎合戦場

 昨日(22日・水)から旅に出た。予定では今日(天皇誕生日)からだったが、ひょんなことで早めた。もっとも昨日Inter Netで旅行計画を立てていたら出遅れて、宿泊地は名神・多賀SAになってしまった。寝るとき雨が降っていた。昨夜司馬遼太郎の「街道をゆく 島原半島・天草の諸道」を遅くまで読み、録音した自分の歌声を聞きながら寝た。目が覚めたときは未だ暗かったが、続きを読んでいたら直ぐ夜が明けた。買い置きで朝食を済ませて出発したのが08:00だったか。
 先ず「近江神宮」を目指した。その趣きは《大津京》の位置を探索するため。神宮は簡単に見つかった。境内の由緒書を読むと「大津京錦織(にしきこり)遺跡」の近傍に創建とある。近くにJR湖西線「大津京駅」があるし、見当はほぼ当たり。意外だったのは昭和15年の創建、昭和天皇の強い思い入れによるそう。祭神は《天智天皇》。唐・新羅連合軍に追い詰められた百済に救援軍を派遣した天皇。黄海・白村江で大敗し、勢いをかった連合軍に日本も侵略されるという危機感を強烈に抱いて北九州から瀬戸内・畿内にかけて防備の城を築き、都も大津京に遷した。昭和15年と言えば太平洋戦争に突入する前夜。天智天皇と昭和天皇が置かれた時代状況は符合していた。
 次に念願の《伏見稲荷大社》を探訪。この大社はとにかく想像力を掻き立てる。見届けないと収まりがつかない。行ってみて分ったことは、この大社は背後の《稲荷山》が御神体。この山は、麓から山頂まで雑多な神々で満ち満ちている。山に住んだ古狐の数ほどに神が居る、という感じ。それらをひっくるめて大雑把に「稲荷大神」が束ねている。日本人の一つの定義がここにある。朱塗りの「千本鳥居」は凄い。あれは丸木を連ねたアーケード、それが麓から山頂まで続く、壮絶。百聞は一見に如かず。セレナに戻った時は12:30。
 さらに《石清水八幡宮》を探訪。この宮には一度参拝している。あれは7、8年前、不安定型狭心症で緊急入院した数ヵ月後のこと。事務長Y氏の運転で大阪地裁に出張した帰りに寄った。吾輩は冠動脈にステントを装着して初めて山頂を目指すことに挑戦した。脚はきつかったが、心臓は大丈夫だった。それが確認できて嬉しかった思い出がある。今回再挑戦に及んだのは別に心臓の具合を試そうというのではない。山崎の合戦の時、大和国の軍勢を率いた筒井順慶が「洞が峠を決め込んだ」その峠がこの石清水八幡宮の鎮座する山の直ぐ続きの山にあると聞いて地図をよく見ると、成程今回の旅で探訪しようと思っている大山崎(山崎の合戦場)をまさに見下ろす地位に神社があったから。もっとも実際にはここの山から大山崎は木立が輻輳して邪魔になり見えない。
 今日の最後は「大山崎町歴史資料館」15:40着。閉館は16:30だそう。ボランティアの説明が付いた。吾輩の関心は大山崎の地勢が有する大会戦の予定戦場たるべき特性と対峙した秀吉・光秀両軍の布陣状況を知ることのみにあったんだが、大山崎の古代から近世に至るまでの歴史を学ぶことになった。それはそれで有意義だったんだが、時間がぁ‥。後鳥羽上皇ゆかりの「離宮八幡宮」の知識を得た。桂川・宇治川・木津川の三川が合流して淀川となる、そこに大山崎がある(大昔は小椋池で合流していたそう)。天王山が淀川に迫り平地を狭隘化している、そこが大山崎。淀川を挟んで天王山と向かい合う位置に石清水八幡宮が鎮座する山があり、その山の続きに「洞が峠」がある。京都盆地と大阪平野が大山崎でくびれて首の皮一枚で繋がっていると想像すればいい。長岡京の南端は大山崎にかかる。ボランティアが口にした「小泉川」という名を吾輩は聞き逃さなかった。訊くと小さい川だという。この川を挟んで秀吉と光秀の両軍が南と北に布陣して対峙した。秀吉軍4万、光秀軍1万6000。午後4時頃に戦闘が開始され2時間ほどで決着がついた。吾輩は夕闇迫るなか早速「小泉川」を探索した。なんなく見つかった。この川に対し垂直方向に北上してみると「勝竜寺城址」まで見つかった。光秀が敗軍をまとめてそこに一旦籠ったが、深夜そこから近江坂本城に向けて脱出を図り、途中山科の小栗栖で農民の竹槍にかかったという城。城址は今公園になっている。
 城址公園の駐車場は17:00に閉まるというので早々に切り上げて名神高速大山崎ICを目指した。すっかり暗くなっていた。今、吹田PAに居る。電波状態も好いし、セレナの中で夕食も済ませたし、今夜はここで泊まる。「街道をゆく」の続きを読む。明日は西宮ICで下りて「えびすさん」の西宮神社の探訪から始める。それではまた明日(^O^)/

0 件のコメント:

コメントを投稿