2010年8月17日火曜日

8/16(月)、大和路、信貴山・法隆寺

早朝の目覚め。當麻(たいま)寺に着いた時は誰も居らず朝の静けさ。独りで境内を隅々まで探訪。この寺は二上山(にじょうさん)山麓葛城地方の一豪族「當麻氏」の氏寺だったそう。寺の規模や格式から言うと大した豪族だったことになる。それにしては氏族としては史上に名を残すことが少ない。「當麻蹴速(たいまのけはや)」が有名なくらい。伽藍配置も独特。三重塔が東西に配されている。見所はある。仏像には全然お目にかからず。
その後、信貴山に登った。「信貴山縁起絵巻」(国宝)で有名なあの寺、名は「朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)」という。毘沙門天が御本尊と聞いただけで風変わりな感じがするが、登って見ると実際変わっている。仏教寺院という感じがしない。修行者釈迦の悟り仏教はその死後500~600年間は釈迦教団によって護持されるだけのもの、それが世界的宗教に飛躍するのは天才思想家龍樹の登場による。龍樹が開いた大乗仏教の世界は思想としての器が巨大だった。龍樹以降次々と釈迦に名を借りた大乗仏教思想が盛られ膨大な経典が産出された。しかしインドでは思想仏教は衰退し、やがて土着のジャイナ教、ヒンズー教等に吸収され消滅した。釈迦は今もインドで尊崇されているが、それは一聖人(修行者)としてである。インド仏教が衰退消滅に向かったとき、インド土着のドラヴィダ族の信仰宗教との妥協融合が図られた。真言密教がこの段階の仏教の姿を体現する。やたら仏法を守護する神々やその眷属が登場する。空海は真言密教を最新の仏教と考えたが、インドでは実は終末期の仏教(最新には違いなかったが)。天や明王は、その素性はドラヴィダ族の神々。信貴山上の宗教世界はもはや釈迦仏教から遠く隔たっている。
信貴山を探訪した後、吾輩は予定外の行動に出た。法隆寺を訪れた。何度も訪れているが、どうしても行きたくなった。やはり法隆寺は別格の寺だった。その端正で盤石なフォルムはどう見ても一つの思想の表現であり、その思想の美しい響きが吾輩には心地好かった。それにしても暑かった。暑くても法隆寺の美しい安定感は暑さを忘れさせた。法隆寺に立つと、現代美術の奇想奇抜を衒う有様は屁の様なものに思えてくる。千数百年前にこの寺を建てた大工や工芸職人は大芸術家達だった。
それからどうしたかと言うと、吾輩は大和盆地の中央を横切って東の端の「石上(いそのかみ)神宮」に向かった。この神宮の神は古代物部氏の神。物部氏は蘇我氏・聖徳太子と、仏教導入をめぐりそれに反対して対決して敗れた。その物部氏の神と蘇我氏の仏が大和盆地のど真ん中に横一直線を引いたその東と西の果てに「石上神宮」と「法隆寺」を建てて対峙したまま。石上神宮を探訪しているうちに黄昏となった。
この神宮から南の方「大神(みわ)神社」まで「山の辺の道」が今も通じて残っている。この古道筋に「崇神天皇陵」と「景行天皇陵」が巨大な姿を今も残している。夕暮れの中、この二つの巨大古墳を廻りながら南下し、明日香村・村営の大駐車場を目指した。以前吾輩は料金掛かりのおばさんに訊いたことがある、「閉門までにウォーキングから戻れなかったらどうなりますか」。答えは、「構いません、係りの者は時間になったら帰りますが、出入口は開けたままです。翌朝までそのままですからそのまま泊まっても誰も何とも言いません」。という訳で。

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