2010年7月9日金曜日

7/4(日)、京都《三十三間堂》

三十三間堂には驚かされる。伽藍のその長大さと整然とした美しさ。何より内部に居並ぶ仏像の個々の素晴らしさとそれらが集団となって醸し出す凄絶なまでの迫力、まさに圧巻。この様な伽藍と仏像群が現代にまで残されているということは奇蹟。三十三間堂は木造建築物としては世界一長いそう。
《三十三間堂の沿革》Wikipediaフリー百科事典による
もとは後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があった。法住寺殿の広大な境内の一画に建てられたのが蓮華王院本堂=三十三間堂。上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて1165年に完成したという。創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、1249年の火災で焼失。1266年に本堂のみが再建。現在「三十三間堂」と称される堂がそれであり、当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。三十三間の「間」(けん)は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語。「33」は観音に縁のある数字で、『法華経』等に観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによる。










購入した「つれづれの記・国宝三十三間堂」より
観音像が右に500体(5段100列)、左に500体(〃)、合わせて1000体

中央に本尊・十一面千手観世音菩薩

1000体の仏像の前に28部衆(すべて国宝)が居並ぶ。その両端に、風神と雷神がいる。俵屋宗達の《風神雷神図》(建仁寺)のモデルと見られている。


木造二十八部衆立像 Wikipediaフリー百科事典による
『一代要記』には、1249年の火災では二十八部衆像は救い出されたことになっているが、現存の像は技法・様式から鎌倉復興期の作とみなされている。二十八部衆は、千手観音の眷属であり、千手観音を信仰する者を守護するとされている。28体の中には四天王、金剛力士(仁王)のようになじみ深いものと、金大王、満仙王のように由来のはっきりしないものとが混在する。『千手観音造次第法儀軌』という経典に基づく造像とされるが、三十三間堂の各像の名称は必ずしも経典と一致していない。また、図像的にみて、寺伝による像名が必ずしも本来の像名でない例もみられる。これらの像は本来は本尊像の両脇を取り囲む群像として安置されていたものであるが、近代になって堂の西裏の廊下に一列に安置されるようになり、20世紀末に現在のように千体仏の前面に配置されるようになった。
時間の都合で見学できなかった建造物 ①太閤塀、②南大門

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