2009年12月31日木曜日

12/31 高千穂と阿蘇を探訪して今年が暮れた。

故郷の北陸地方は大雪に見舞われてるらしい。皆さん大晦日・元旦と雪掻きに明け暮れて大変ですねぇf(-_-;)。他人事みたいなモノ言いをしているけれど、僕は四国・九州と流浪の旅を続けているので実感が湧かない、自分のこととは思えない。今朝九州道を熊本ICで下りて阿蘇山に向かったら山に近づくにつれて小雪が散らつき前途多難を思わせた。それで阿蘇登山を後回しにして先ずは阿蘇外輪山を越えて宮崎県「高千穂峡」に進路をとった。これが大正解で高千穂では、高千穂神社、高千穂峡と探訪するにつれて空が晴れ景色に光が溢れていった。高千穂峡で見た光景は自然の造形とは思えない神秘の超芸術。高千穂峡を見ずに絶景と絶叫する勿れ!「天の岩戸神社」も探訪。「天の岩戸」の遙拝をしそびれたのが残念。「天の岩戸」は川向こうに遙拝は出来るが(申し込みが必要)そこに行く道も橋もない、立入禁断の聖地。「天の安河原」は探訪。ここで八百万の神が会議をしたそう、天の岩戸に姿を隠した天照大神にまた姿を現して貰う方策を論議するために。今日は古代神話の世界を身近に感じた。尤も天の岩戸神社で訪れたのは「西本宮」だけで本当は「東本宮」もあった。西本宮は天の岩戸を遙拝する神社、東本宮は天照大神を祀る神社だそう。片参りだった(/_;)。今日は「ルートイン・熊本大津(おおづ)」に宿を予約してあったので阿蘇に引き返した。阿蘇山はさすがに寒く小雪も舞っていた。が、時折晴れ間が覗き「根子岳」「中岳」をカメラに収められた。「阿蘇神社」にも参詣。それから百均でセレナの車内整頓のための小物を買い、ジャックスで食料と清酒「熊本神力(しんりき)」を仕入れた。そして女房と二人大晦日の食事をした。その前にホテルの大浴場で今年最後の髯剃りをした。紅白歌合戦を見ながらこのブログを書いている。スーザン・ボイル、矢沢永吉がいきなり登場してビックリ(o)/いよいよ今年が暮れていきます。皆さん、来年もまた宜しくお願いしま~す(^O^)

2009年12月30日水曜日

12/30 暗雲が垂れこめる中、壇ノ浦・大宰府天満宮を探訪。

女房との二人旅が始まった。08:00女房の運転で山陽道「小谷SA」出発。途中で運転を代わろうとして、僕のメガネ紛失事件が発生、幾ら探しても出て来なかった。天候も悪くなり雨が降り出した。暗雲が垂れこめたって感じ。下関ICで下りて「壇ノ浦」探訪。成果があった。「壇ノ浦」を関門海峡の現地で何処か特定できた。「馬関戦争」で長州軍砲台が連合国艦隊の艦砲射撃を浴びて完膚なきまでに叩きのめされた現場を特定。何とそこは壇ノ浦。そして関門大橋はそれらの戦場の真上に架かっている。「赤間神宮」に参詣。この後九州自動車道に入り大宰府ICで下りて、「大宰府天満宮」と「大宰府政庁跡」を探訪。女房は風呂に入るのにこだわった。二、三カーナビで探訪したがいずれも失敗。調子を狂わせ鳥栖JCTで進路を間違い熊本に行くべきなのに福岡方向を選択。筑紫野ICで下りてまた入り直し、熊本の手前の「北熊本SA」に泊まっている。女房は最後まで入浴にこだわり、菊水ICの手前のPAで「道の駅・きくすい」に電話して営業状態を確認しようとした、が、電話の応答はなし。年末休暇に入ったらしい。漸く女房は風呂に入るのを諦めた。可哀想なのでインターネットでルートイン熊本大津駅前の空室状況を検索したら禁煙シングルが空いていたので二部屋予約。女房の愁眉が開いた。明日は「阿蘇山」「高千穂峡」に行く。高千穂峡の先は延岡だが、そこまで行ってはその先何処まで行っても何もない。それで僕は高千穂峡から熊本に引き返す案を出したという訳。写真は今日の分も整理が出来てない。

12/28(月)足摺岬。12/29(火)佐田岬。

昨夜はeメールの届かない所で寝た。高知県宿毛市の「道の駅・すくも」。腐った道の駅やなぁと思いながらも疲れていたので泊まった。朝目覚めて辺りを散歩してみたら海辺の景色の最高に好い特等席だった。好い所に泊めて貰ったんやぁf(^_^;)。昨日の顛末を略記しておくと、朝07:30起き、08:00「道の駅・かわうその里すさき」出立。「四万十町」(旧窪川町ほか)、「四万十市」(旧中村市ほか)経由で足摺岬へ。道の駅・窪川の情報館で入手した四万十町の地図を眺めていて一旦方針を変えた。四万十町の中心・窪川で国道56号線(高知市から旧中村市に直通)を離れ、窪川を流れる四万十川が西に流れるのに沿って山中を曲々縫っていく県道を行こう、そして四万十川が直角に向きを変え南下していくのに沿って走って河口の旧中村市に至ろうと。それほど僕は清流・四万十川を高く買っていた。ところが新方針を実行してみたら四万十川もただの川の流れであることを知った。幾ら清流でも風景としてはただの地面の溝。面白くも何ともない。この川に沿う道を走り続けても空しい。僕はそう直感して直ちに国道56号線に引き返した。新方針の駄賃は、窪川市街地に所在する四国37番札所「岩本寺」に参詣できたこと。それから四万十市(旧中村市)で四万十川を渡り、国道56号線と分れて足摺岬へ。そこから土佐清水市までの道のりがまた長い。ようように土佐清水市街地に到着。いよいよ足摺岬へ向かい半島中央部を貫くスカイラインを走ったがこれが難路。足摺半島の山々は高く四百数十mの峰々が連なる。やっと着いた足摺岬の集落・観光街は意外に大きい。四国38番札所「金剛福寺」に参詣。37番「岩本寺」から38番のこの寺まで86km余もある。お遍路さん泣かせだろう、足で三日もかかる行程。この後、足摺岬の突端に到達。灯台の写真を撮った。帰り道は半島西海岸沿いの旧道、これが悪路。土佐清水に戻り、西進して「竜串海岸」を目指した。が、竜串に着いてもお目当ての海岸を発見できず、四苦八苦の末にとんでもない「遊歩道」を発見。岩伝いに道なき道を辿るというもので、余程好きで志がなければ決して挑戦しそうもないマニアックな遊歩道。僕は一目ですっかり魅了された。海に棲む大芸術家がそこの海岸で気の向くままに腕を振るい一仕事したとしか思えない野趣豊かな作品が雄渾に展開されているという感じ。僕は時の経つのも忘れてアッチこっちコッチあっちと岩の上を跳び回った。お蔭で夕暮れて次の行き先がパアになった、次の予定の大月海岸もなかなかのものらしかったが。宿毛の道の駅に着いたらもう六時過ぎ、すっかり暗かった。

12/29 今朝は07:30起き、08:00出立。宇和島・八幡浜を経由して「佐田岬」まで行ってきた。佐田半島は伊予・松山の西にあり、九州の別府・佐賀関の方にひょろ長く飛び出て延びている、本当にひょろひょろと長い半島、そのひょろ長(なが)形の不思議は一種の奇跡。その先端に「佐田岬灯台」がある。その灯台の写真を撮ってきた。そうそう佐田岬ならではの二つの出会いがあった。一つは素敵なミカン売りのおばあちゃん、もう一つは野生のイノシシ(o)。後で余裕があったら二つの出遭いのことを書こう。四国は昨日も今日も天気が好かった、付いている。植生が北陸と全然違う、こちらの山は常緑照葉樹が生い茂って冬の今も青々としている。今日伊予柑畠を初めて見た。絶壁の様な山の斜面で栽培している。夕方備後国・福山駅で女房と落ち合えた。待ち合わせ時間に遅れそうなので夕暮れの中「しまなみ海道」の醍醐味を味わう余裕もなくただ島々を伝う連絡橋の上を突っ走るだけ。結局僕が30分ほど遅れたけれどとにかく無事落ち合った。女房は晩九時過ぎにはもうセレナの中で寝袋に収まり鼾を掻きだした、達者で長生きするタイプ。明日からは九州に入る、そして二人旅になる。九州はあちこち温泉が多い、道の駅も温泉付きの施設が沢山ある。女房は風呂が大好きだから研究しているらしい、二人旅となるとこれからは僕も温泉の湯に毎日浸かって極楽な年末年始を過ごせるかも。とにかく僕が清潔な人間に生まれ変わるのは間違いないf(-_-;)。今夜セレナが夜明かしする場所は、広島県内の山陽自動車道「小谷(こだに)SA」。写真は四国入りしてから撮り過ぎて整理がつかないので後日に掲載。

2009年12月27日日曜日

11/27(日)、快晴の四国路・吉野川上流を歩き回った。先ずは「小歩危」から。

朝7時に目覚めた。08:00鴻池SAを出立、瀬戸大橋を渡り讃岐国・坂出に上陸。直ぐに善通寺ICで下りて下道を走り、讃岐と阿波の国境を成す峠を越えて吉野川上流に位置する旧池田町(現在三好市)を目指した。旧池田町、ここで吉野川は直角に折れて流れをそれまでの南北方向から東西方向に変えあとは一直線に東の方・紀伊水道に注ぐ。ここから国道32号線に入り、南下して高知市に至る。今日の目的地の一つ、「大歩危」「小歩危」は国道32号線に出て暫く西進し、旧池田町で吉野川と共に直角に折れて南下して行くとある。吉野川は南流する。僕は北上し川を遡る。初めの予定では吉野川支流の「祖谷渓」に先ず入るつもりだったが案内標示が見当たらないまま祖谷川谷に入る吉野川に架かる橋を通り越した。ので、マッ好いかと方針を切り替えて大歩危・小歩危の本流の谷から探索することに。
先ず「小歩危」を歩いて探索。
小歩危の次に「鳶の巣渓谷」に入り込んだ。
それから「大歩危」を歩いて探索。ここで歩数は15,000歩。ここの最後に「道の駅・ラピスおおぼけ」にセレナを乗りつけた。ら、「石の博物館」があった。有料だし時間もなかったので入館しなかったが、売店に珍しい石類が多種多様にコレクション然として並べられていた。その中に「ラピス・ラズリ」があった。この石、産地はイラン・アフガン。色味は紺碧、「ウルトラ・マリーン」色。ヨーロッパの画家は紺碧の青色を手に入れるために「ラピス・ラズリ」を砕いて粉にし顔料にした。しかし「ラピス・ラズリ」はイラン・アフガンでしか採れずしかも生産量が少ない、その上危険な後悔を経て輸入されたため貴重で高価だった。同じ重さの金よりも高価とされた時代があった。ヨーロッパで紺碧の青色の別称が「ウルトラ・マリーン」と言われたのは顔料の「ラピス・ラズリ」が文字通り「海洋を越えて(ウルトラ・マリーン)」輸入されたため。今はウルトラ・マリーン色は化学合成された顔料で作られるので安価。時代は変わった。しかし僕は「ラピス・ラズリ」の辿った崇高な物語を知っていたのでこの石に無上の関心を抱いていた。なのに僕は「ラピス・ラズリ」の原石を見たことがなかった。それが目の前にあった。やはり超高価で旅先で気安く買える代物ではない。今日のところは諦めることにして帰りがけにレジの前を見ると、多分傷モノの「ラピス・ラズリ」の小石を薄切りにしたモノが売られている、1,050円也。買った!(^^)! とうとう「ラピス・ラズリ」を手に入れた\(^o^)/














大歩危のあとは、祖谷村を目指した。峠を越した祖谷川の谷間にある平家の落人伝説に彩られた世界。「かずら橋」「びわの滝」を見学。道中「平家の家」なるものを見学しようとしたが、受付に人がいなくて断念。どうも冴えない民俗資料館だったと思えるので残念ではない。悔いがあるのは、びわの滝を見た後祖谷に来た記念にと塩焼きアメゴを食したが(500円也)痩せて美味しくなかった、丸々としていた鮎の塩焼きの方が好かったなぁと思えること。
最後に大豊町で「日本一の大杉」に会ってきた。娘達が小さかった頃家族みんなで大豊付近の大杉を訪問したことがあるが、それがこの杉だったのか記憶がはっきりしない。違うのは、昔は無料だったのが今は見学料200円也ぃ(+_+)。
大豊ICから高知自動車道に入り、18:00過ぎに高知県須崎市の「道の駅・かわうその里すさき」に辿り着いた。嘘みたいな名前の道の駅。今夜はここで宿泊する。今日の歩数総計18,500歩、距離にすれば12kmほどか(゜o゜)。
明日は足摺岬界隈を中心に絵になる風景を探索する。折角ここまで来たんだから四万十川を遡上することも計画のうちになくもないが、多分無理。
今日は写真を撮り過ぎて手に負えないので写真掲載は断念。疲れたのでもう寝るわ。お休みぃ(-。-)y-゜゜゜


三木城の絵図面

三木市立金物博物館のオジサンから戴いた絵図面コピーを掲載する。この絵図面を手にして現地を歩き回ったので、掲載せぬわけにはいくまいf(-_-;)。下田勉氏が測図した旨の記載がある。






















字が小さくて読めないので、中心部をさらにアップ。







2009年12月26日土曜日

12/26(土)、幻想の三木城

早朝御出立の予定が、目覚めが遅く、しかも朝刊を買って読んでたら、09:00の出発になってしまったf(-_-;)。北陸・名神・中国・山陽と自動車道を伝っていき、三木ICで下りた。三木城攻防戦は戦国史の華だから当然地元でも観光資源として有効活用されていると楽観していたらさにあらず、全然案内表示が現れない。何処に存在するのかさっぱり見当がつかないので、神戸電鉄・えびす駅で駐車して観光案内板を眺めた。どうやら市街地のど真ん中にあるらしい。






























台地の古道を上ると漸く案内が出た。
















左が三木城址。直進すると(後で歩いてみて分ったんだが)「新城」と「二の丸」曲輪の境目を行くことになる。左に行くと「西の丸」跡があり、さらに「本丸」跡がある。
















西の丸跡には小学校の廃屋や美術館などが建っている。
本丸跡は「上の丸公園」というらしい。ここに何があるかというと、
















先ず「金物神社」があった。神社の中に、


































三木市立金物資料館があった。入館料が無料なので拝観。意外と展示物が充実、一見の価値はある。三木が野鍛冶で有名な町であることを知らなかった。各種鉄製品がどのようにして鍛造されていくのか、一目瞭然に分らせてくれる。学ぶことが多かった。大事だったのはここのオジサンと会話する縁が出来て、三木城の往時と現今の姿の似ても似つかぬ相違を教わったこと。往時の三木城の面影は「上の丸公園」の一角にしか残っていない。あとはすべて高台の市街地と化して面影を偲ぶよすがもない。資料館のオジサンと目が合い入館することになる縁がなければ、三木城の輪郭は幻の彼方にあったろう。資料館を出て、僕は教わった三木城の輪郭を辿った。
















本丸の一角は稲荷神社に占拠されている。稲荷神社の境内から見下ろすと本丸の高さが分る。
















本丸らしさが残る一角がここ。

























































この銅像のお蔭で、ここが往時三木城の本丸であったような気にさせて貰える。
















「天主跡」とされている場所からの眺め。当時天守閣を備えた城はは未だ何処にもなかったろう。
















別所長治の辞世の句碑が建てられている。「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」 自刃した一族の人達の句碑もある。





















本丸にある案内看板。三木城が一大城郭であったことが分る。しかしこれよりも金物資料館のオジサンから頂戴した図面の方が詳細で良い。僕はオジサンの図面を手にして歩き回った。およそ5,000歩、約3km。その図面、明日撮影して掲載しよう。

































神戸電鉄が本丸の真下真横を横切る。

















「鷹の尾」要塞に比定される小山。右の森は「雲龍寺」。

















「雲龍寺」。ここが、三木城郭の西端をなしていたらしい。







































































































「二の丸」と「鷹の尾」要塞の間の濠跡に見える。
















二の丸曲輪を廻る古道に見える。

















右側が「本丸」跡、左側が「新城」跡。資料館のオジサンの話では、道はもっと深かった(土盛りをしたそう)。

















「新城」の崖。崖上の高台は市街地化。
















「新城」下の坂道を下って振り返って見た「新城」の崖。
















さらに下ると「東の丸」の崖が見えてくる。
















この崖上の高台も市街地化している。
「新城」の崖と「東の丸」の崖の間辺りから伸びている道が往時の「大手門」に通じていたらしい。国道付近に「大手堀」の地名が残っていた。
















大手門方向に歩きながら振り返ると、
















右側にこんもりと見える森が本丸跡(上の丸公園)。
















新城の崖に生えた森。
















東の丸の崖に生えた森。
















大手門付近らしい。この小路を指している次の案内標示を発見。












三木城は、山間の砦といった類のチャチなものではなく、一大城郭をなしていた。だが今は盛時の城郭の雄姿を偲ぶよすがもない。戦国時代の城塞攻防の一大叙事詩を偲ぶ人々の心の中にのみ生きている幻想の城郭というしかない。
ところでこの一大叙事詩を飾る謎は、三木城は何故に織田信長、その中国方面軍総司令官羽柴秀吉に反旗を翻したのかという点。この不思議は解明されていないが、戦国武将の心の機微が何となく感じられて謎なるが故に詩想に繋がる。

2009年12月25日金曜日

福井県・南条SAにて。

旅に出ている。18:00七尾、御出立。20:15南条SA、御到着。早速「浜焼鯖」¥1,100を購入。相変わらずデカイ、秋の鯖より鮮度が格段に落ちている。レジの人の好いオバサンが焼棒(竹串)の抜き方を伝授して呉れた、グリグリと回してから抜く、そうしないと身が串に付いてきて鯖の形が崩れる。隣のコンビニで三角お握り2個と牛乳・野菜ジュース・爽健美茶を買った。レジの人の好さそうなオバサンがフライドチキンを勧めて呉れたのでそれも1個。49円引き也ぃ\(^o^)/セレナの中で独りっきりの晩食。僕には孤独に対する耐性がある。明日は先ず播磨の三木城を訪ねてみようと思う。歴史好きなら垂涎の史蹟、羽柴秀吉が中国攻めの初期に兵糧攻めにした城。城主は別所長治。彼は従来織田方だったが、何が不満か反旗を翻した。そこから兵糧攻め・籠城戦が始まる。秀吉の兵糧攻めはそれは徹底したもので2年の長期に及び、籠城方に凄惨な飢餓地獄が襲い掛かる。最後は別所長治が切腹して終幕となる。戦国時代の一大叙事詩。その舞台を是非この目で見分したい。冬至の現今、夕暮れの到来が恐ろしく早い。1日を出来るだけ長く活用するため早朝に旅立とう。

「彩の会」でモデルを描いた!(^^)!

3週目。P20号、紙ボードに油絵具。12/24(木)クリスマス・イブの日で、ティータイムに美味しい紅茶とケーキが出た。「彩の会」に入会して久しいが、こんなに美味しいティータイムは初めて。






















今夕からまた「無宿流浪の旅」に出る。車の中で寝ることになるが凍死したらニュースになって娘達に恥をかかせるので、北は避けて南を目指す。冬の日は短い。絵を描いている暇などないので(それに寒過ぎ(>_<))油絵の道具を捨てて、デジカメ一丁で走り回る。パステル絵具と画帳は持って行こう。真冬・年末年始の無宿流浪の旅がどういう顛末を辿るか、想定不可、天候次第。寒波・風雪が襲来すれば最悪、大寒波ならば一巻の終わり。29日夕刻に新幹線で来る女房と、備後国・福山駅で落ち合う。以降1/5までセレナでの二人旅になる。女房用の寝袋も積んである。流浪の旅への参加は女房自身の意思による、だから彼女が僕の無宿旅行を馬鹿にしていなかったことは明白。羨望と尊敬の眼差しで見ていたかも‥マッそんなことはないと思うけど、それにしても変わっとる女やぁ←僕の言うことではないかf(^^ゞ。