2009年6月29日月曜日

土手の散歩道・犬も歩けば棒に当たる

能登・七尾の市街地を真っ二つに割って流れ七尾港に注ぐのが御祓川(みそぎがわ)。珍らしい名前の川だが昔文字通りそこでミソギが行われた。戦国の世に前田利家が織田信長公から越後の上杉謙信との決戦に備えて能登一国を与えられ七尾所口(ところぐち)の小丸山丘陵に築城したが、それまでその丘陵には「気多本宮」(延喜式内社の「能登生国玉比古(のといくくにたまひこ)神社」に比定されている)が鎮座していて丘陵は鬱蒼たる神域だった。その小丸山丘陵の裾を廻って流れていたのが御祓川。気多本宮の氏子崇敬者は神域に入る前にその御祓川を渡った、清流だった。その気多本宮は利家の命令一下所口の平地に遷座させられ、その跡に利家は小丸山城を築いた。因みに利家が七尾小丸山城主になって一年後、賤ヶ岳の合戦を制した羽柴秀吉から利家は(敵方の柴田勝家陣営に所属していたにもかかわらず)加賀二郡(河北・石川)を加増されて金沢城に移ったが、その後気多本宮が小丸山丘陵に復帰することは遂になかった。現在の小丸山公園に前田利家が一時築城したことは七尾市民は存じているがその前永く神域であったことは殆ど知られていない。御祓川はいつしかその名のゆかしき由来を忘れられ近年に至ってはドブ川と化した。さてその御祓川の支流に鷹合(たかごう)川がある。旧国分村鷹合の在(今は七尾市の郊外)を流れる。僕の法律事務所の裏手。その川の土手を僕は毎日散歩する、四季を通じて歩く、運動療法の一環。歩きながら川の自然を観察していると思いがけない発見がある。大鯉がいる、特に春の産卵期の繁殖行動は圧巻。




カルガモの親子



羽黒蜻蛉

銀やんま

オシドリ夫婦

白鷺

五位鷺

鷺が空腹なんだろう、一晩中川の中に立ちつくしてジッと川面を見詰めていることがある、月明かりや外灯の明かりを頼りに。カルガモが夜、散歩中の足元から飛び立つことがあるが夜空の電線を巧みに避けて飛ぶ。鳥の目が「鳥目」で夜目が利かないというのは嘘だ。
この川に鯰(なまず)が今も棲息していることを誰も知らない。僕が最初に目撃したのは《能登半島地震》(H19/3/27)の前日のこと!その日も土手を散歩していたら、40cm程の鯉の様な黒い魚影が水面に浮上して忽ち反転して底に消えた。その魚影は頭でっかちで胴体が異様に細かった。その動きはヌニョロヌニョロ~と胴体をS字状にくねらせた。鯉には垂直に昇降する習性はない。得体の知れぬ魚影だった。翌日大地震が発生。僕の脳裏ではその時点で未だ前日水面に浮上した異様な魚影と大地震は結び付こうとしなかった。大地震の余韻が未だ残っている頃のこと、鯉達の恋の季節の終焉が近づいていた。毎日観察を続ける僕の目に、あの異様な魚影が何匹も水面近くをクネクネと泳ぎ回っているのが映った。普段は全く姿を見せることがないのにまるで無防備・無警戒。こ奴らも恋に狂って目立ちたがっている。それは鯰だった。




そうと分かった途端《能登半島地震》の前日に見た鯰の異常行動が想い起こされた。鯰には確かに地殻変動の予兆(地殻の軋み)を探知する能力があるのではないか、これが僕の感想。
次に蛇は意外と迂闊モノだという話。散歩中鷹合川で蛇を結構目撃する。

初夏の一日僕は土手兼農道を散策していた、土手は草叢となっていた。草叢を踏みつけながら歩を進めると靴底がグニャッと異様なモノを踏んづけた。咄嗟に目を遣ると必死に逃げ去る1m余の縞蛇。ゾッとした。しかし考えてみると縞蛇は結構迂闊モノ、人に踏んづけられるとはドーヨ(`´)。これが蝮(まむし)なら僕の足に咬みつき、僕はあえなく路傍で果てていた、この果て方は本望とは言えない。因みに蝮なら最近も郊外の舗装道路上で轢き殺されているのを見た、いるのだ(>_<)。国分の川縁でビッコの縞蛇に出会ったらそいつは僕に踏んづけられて逃げた迂闊モノですので宜しくぅ。

2009年6月22日月曜日

七尾湾能登島のイルカ、カフェ「海とオルゴール」のママが奇跡的なシャッターチャンスを捉えた、執念勝ち

北陸は梅雨入り宣言があったが今日は晴れ。七尾湾に浮かぶ能登島に渡り「海とオルゴール」という喫茶店に坐ってコーヒーを飲みながらブログを書こうとしている。春の写生シーズンが終わって「流浪の画家」としては手持ちネタがなくなった。この店に来れば何かあるかもと思ったら果たしてあった。この店のママは能登島に数年前から棲みついたイルカ達が大好きで、余暇さえあれば彼らに会いに行く、島のじぃちゃんの漁船に乗せて貰って。ママは勝手にイルカ達に名前を付けている。毎年子供が生れイルカの家族が増えているが、新家族の名前も勿論ママが命名する。イルカ達もママの声・顔姿を識別し家族然として受け容れている。一般観光客を迎える時と態度が違う、船の船頭じいちゃんもそう言う。イルカ達とママは互いに愛情愛着信頼という家族的絆で結ばれている。そういう間柄であればこそ撮れた(そうでなければ撮れない)写真が店にある。二頭のイルカがママのカメラを意識し気を合わせてポーズをとってくれたとしか思えない絶妙の写真。僕は奇跡の一枚と呼んでいる。

ママが言うには――目が合っている子はウィンクしている。まさかと僕は思ったが、よくよく観ると↓本当にウィンクしていた。

この写真、プロのカメラマンが百年かけても撮れない。腕前技術の問題ではない。ハートの問題。
イルカは頭が大変良い。情が深い。イルカの大脳の解剖図を観ると、容量はヒトよりかなり大きく、表面の皺もヒトよりずっと細かい。ヒトよりも頭が良いと推測される。イルカの運動能力がヒトを桁違いに凌駕していることは水族館でお馴染み。遊び好きで愉快な仲間であることは外洋を航海すれば直ぐに分る。探知認識力、記憶力、判断力などが抜群であることも付き合ってみれば直ぐに分かる。ヒトにあってイルカにない能力として特筆すべきは言語能力。しかしこれとてもイルカはヒトの様に声を出して話せない手を使って書けないというだけで、何せヒトより相当発達した大脳の持主のこと、どんな身体器官をどのように活用駆使してどんな言語を実は操っているものか分かったもんじゃない。こんな写真を撮ったママはひょっとして…イルカ語を理解していたりしてf(-_-;)
人は言葉を持った時から「地獄」を知り、知った時から地獄に落ちるようになった。イルカは多分地獄という言葉を持たない。イルカの世界に地獄はない。「海とオルゴール」のママはブログを書いている。「海とオルゴール」で検索すればhitする。読めば分かるがそこで語られるのは詩の世界。ママは詩人。イルカも多分詩の世界に遊ぶ詩人。詩の世界に遊ばねば人はイルカのこのような振舞表情に遂に遭うことは叶わぬだろう。
この写真、人を癒すオーラを発しているらしくて病院で入院患者さんが終日手にして離さないそう。

ネギ坊主の親戚みたいな笑(わろ)ける花の名前がとうとう分かった。アリアム!

散歩道の畑に今年もこの変てこな花が咲いた。

これは去年の夏、能登半島先端禄剛埼灯台麓の狼煙の在所で見たもの。

この花に最初にお目にかかったのは30年ほど前。裁判所から歩いて事務所に戻る途中だったが、余りの奇妙さについ笑って足が止まり10分間程観察していた。以来30年間花の名前を尋ね歩いたが誰も分らなかった。それがとうとう分かった。《アリアム》!行きつけの喫茶店「エスト」に客の一人が一輪(?「一頭」ひとあたま?)持って来て差した。それを見た元花屋の顧客が「おぉ、アリアム」と呟いた。それをマスターが聞きつけメモして僕に伝えてくれた。Web検索すると――ユリ科又はネギ科、原産地・北アメリカ、球根植え、とあった。成程いかにもネギ坊主然としている訳だ。やっと30年来のモヤモヤが解け名前が分って気持がスッキリ(*^^)v名前が分ると本当に気持が好い!(^^)!因みに「分かる」の語源は「分ける」らしい。確かに人間は何でも分類して名前を付けないと(言葉に表さないと)安心しないf(-_-;)。

X-JAPAN(Japan)に、今更いい齢をして嵌っている f(-_-;)。Toshiへの関心から

6月に入ってYouTubeの「X-JAPAN」に嵌っている。音楽堂でCDも買ってきた。何を今更と思う向きもあろうが、面白いんだから仕方がない。きっかけは――癒しの《詩旅うたたび》を続けていたToshiの往年のロックスターぶりを知りたくなったから。僕はX-JAPANを見たことも聞いたこともなかった。話はここで飛躍する。能登半島に七尾湾に抱かれた大きな島がある。能登島。人口3,000人弱。この島の寒村に3、4年前《海とオルゴール》という小さな喫茶店が開かれた。

この店に不思議なママが棲んでいる。このママとToshiが人の世の不思議な縁(えにし)で結ばれて、或る日忽然とToshiがギターを肩に《海とオルゴール》に現れてママの前で「愛の詩」を弾き語った。それは、Toshiがあらぬ誹謗中傷の嵐に曝され苦境にあったときに遥か遠い能登島から詩(励ましの文章)を送り続けてくれた見知らぬ女性に対する感謝の徴(しるし)だった。当時Toshiは「X-JAPAN」脱退後、人を癒す歌を全国を遍歴して歌っていた。そのToshiが《詩旅うたたび》の合間を縫って能登島に渡り名も無い喫茶店に感謝のために現れた、それだけでも劇的だったが、Toshiの歌声に感動したママが涙をポロポロこぼしながら、その感動を皆にも分けたくてただその一心で「天下のToshi」に、ここで――《海とオルゴール》で!コンサートを開いて下さいと申し出て(こんな願い事、普通の人には絶対発想できない)、その申し出をToshiが即座に受け容れたのには仰天させられる。このときの二人は俗世の人じゃない、詩の世界に踏み込んでいた。コンサートは約束通り「能登半島地震」の直後に開かれた。
2007/4/7《海とオルゴール・癒しのコンサート》。

僕も出席し、Toshiの弾き語りを聴いた。写真も撮った。



Toshiは人を癒すことによって癒される歌人(うたびと)になっていた。
それから2年。僕はどういう風の吹きまわしかこの頃俄かにToshiのかつての雄姿を追ってみたくなった。知ってみて驚いた。X-JAPANは――The Beatles級のロックバンドだった。Yoshiki,Toshi,Hideらが織り成して創り出す音の、無闇に僕の心の奥に深く深く響いてくること!!ミュージシャンとしてもエンターテイナーとしても彼らは世界に通用する才能をいかんなく発揮して舞台狭しと暴れまくっていた。しかも音楽が何とも言えず繊細で抒情性があり美しい。彼らの出す音は爆発的に楽しくてそして豊かな詩情が溢れている。正にThe Beatles級。Yoshikiがジョン・レノンにダブッて見えるが、それが不思議に思えない。僕は当分X-JAPANに嵌っている。それにしてもToshiのボーカリストとしての遍歴の振幅の大きさ無辺さには驚かされる――彼には豊かな心、豊かな芸術性が備わっている。

2009年6月20日土曜日

吉野山の千本桜を運好く鑑賞、奈良公園で熱中症気味ながら興福寺・東大寺でスケッチ張を開いた

2009年4月11日(土)
今日も一日遊び回った。色々なことがあって疲れ果てたf(-_-;)頑張って遊ぶと疲れるなぁ。朝やっぱり大和路を南に辿った。奈良・天理市街を素通りし奈良盆地の南端「明日香」に行った。三輪山、石舞台古墳など子供達が小さかった頃に家族旅行で訪れた懐かしい景色遺跡を目にしながら丘陵を縫う旧道に入った。そこは奥明日香。古代的な風情が今も色濃く残っている山里。絵になる風景がある。逆光もまた好い




奥明日香から一車線あるやなしやの山道を辿り吉野に向かった。この山越え道は凄く細いクネクネ道で運転初心者なら竦んで進めないだろう。高取山を越えたら下りは普通の林道で一気に吉野町に出た。吉野町は紀ノ川中流の谷間に位置する。ここに来たのは朝早いうちに古来歌に詠まれた吉野山の千本桜を鑑賞しようという魂胆。吉野山は正に花の真っ盛り。しかし交通規制が掛けられて訳が分らない間にソマ道のような林道に導かれ寂しい裏山・山奥へ走らされた。人っ子一人歩いていない。後続にタクシーが一台付いて来ていたのが気安め。とうとう山頂に来て道が行き詰まったら「吉野水分(よしのみくまり)神社」(立派な造営)があって、驚いたことにこんな山頂まで参詣者・登山者・ハイカーが歩行者天国然として上って来る。自動車一台がやっと通れる細道を人々が蟻の行列のように行き交う。その蟻の列にセレナを割り込ませ掻き分けて下る破目に。人々は「アッ自動車や」と驚いて道を開けてくれる。恐縮至極。サイドミラーが人の背中に当たって閉じてしまったりして…f(-_-;)参ったのは、九時になったら警察が登山道備付のスピーカーで「これから歩行者天国になりますから周回路に入っている車は直ちに出るように」とアナウンスしだしたこと(゜o゜)時刻は当に九時だったので焦った(*_*;上りは不安、下りは恐縮焦燥でカメラを構える余裕などなかった。けれども下りがけに僕はこの目に花盛りの吉野山の全景をしっかり収めてきた(*^^)v「奥千本」「中千本」「下千本」全部を見れた。バス利用のハイカーや駐車場利用の観光客ではこうはゆかなかった。結局僕は訳が分らんうちに好運に恵まれていたんだなぁ!(^^)!

午前九時半頃には下界でコンビニ仕入れの朝食にありついていた。その頃には吉野山に入る車の大渋滞が対向車線で始まっていた。奈良盆地を目指したが今度は山路を避けて国道を選んだ。その国道の対向車線で警察がspeed取り締まりをしていた。オウやっとるなと思ったら何とこっちの車線でも張っていた。気が付いたときは既に遅しで万事休す。ところが赤棒赤旗で制止されずに無事通過。そんなことって、そんなことって…今もって信じられないけれど、時速にして1km/h足らずの微差が運を別けたと思うf(^_^;)因みに二女明子の車からETC装置と共に外してセレナに取り付けたレーダー探知機は神経質でうるさ過ぎるので電源を抜いてあったf(~_~;)。北上中に壺坂寺に寄ってみようと山路を辿ったんだけれど駐車場の無人装置が気に入らなかったので引き返した。奈良市街は素通りするつもりだったんだけれど西大寺は左折の表示を見て気が変わった。東の東大寺に対して西に建立された大寺なんだがそれが現況どうなっているか見たくなった。左折して西に向かった。しばらく行くと今度は法華寺の表示。「国宝十一面観音の寺」と案内してあったのでまたまた気が変わった。国宝の十一面観音は全国に七つほどしかないんだがその一つが法華寺にあることは知っていた。僕が十一面観音に関心を持つようになったのは北近江・高月町で国宝十一面観音に出会ってから。その国宝は「渡岸寺(どうがんじ)」という無名の寺にある。村人によって守護されてきた。平安時代の作品というが作者名は伝わっていない。織田信長が小谷城を攻めたとき、村人達はこの観音様が戦火にかかることを恐れて布にくるみ地中に埋めて守った。この十一面観音の気品ある美しさといったら比類がない。村人達も見ただけで只の観音様でないことが分っていたのだろう、懸命に護持してきた。本体には傷一つない。平安時代、名も伝わらない仏師がこのような芸術作品を作ったとは…人というものの無限の可能性には感動させられる。僕は既にこの観音様に再会を果たしている。オッと話は法華寺の十一面観音のことだった。受付の爺さんの説明では拝観料金が四体系に分れていて一番安いのは庭園観賞だけ、次は…。僕は端的に質問した、「十一面観音は何処に居るんですか」。爺さんの答え、「いつもは本堂に居られます」「今は御本体は国立美術館にお出掛けです」「代わりのレプリカが展示されているのですがあいにくそれも芸大に行っています」「本堂には今十一面観音様の掛軸が掛けられています」。僕は勿論回れ右をした。そうそう話の本筋は西大寺だった。西大寺には結局行き着けなかった。現存しているかどうかも分らなかった。それよりも思いがけない大収穫は西大寺に行く途中で偶然見た平城京跡の発掘修復現場。平城京跡の発掘調査と往時の復元工事については新聞報道で知っていたが、読んで頭に描いていた規模と現地で見る規模とはスケールが違っていた(゜o゜)/これから建物などを復元するらしいけれど凄いことになると思われる。


この平城京跡の真ん中を通って市街地に入ったときまたまた気が変わった。直進すれば奈良公園という案内を見て。ヨーシっ!今日はこれから奈良公園で興福寺の五重塔や東大寺二月堂の裏手の土塀の続く坂道をパステル画に描こうと思い立った。駐車場に入って1500円前払いした。一日分で追加料金なしだそう。時刻は一時過ぎ。パステル画を二枚描けば五時過ぎかなぁと推測。夏日で暑い。車中泊を念頭に冬着で出掛けてきたので発汗もままならず歩くのがしんどい。奈良公園・興福寺に辿り着いた。スケッチブックを開き、五重塔を直射日光を浴びながらパステルで描いた。

体熱が籠り、花粉症状も酷くて鼻水が垂れるわ目が痒いわですっかり消耗。そう言えば昼食も摂っていなかったので公園内の食堂で親子丼700円を食して人心地をついた。
それから東大寺に回り、南大門と仁王様・大仏殿・二月堂・三月堂・四月堂を鑑賞した。









そして二月堂に至る土塀道を描き始めたがもう気力の限界に近かった。


逆光の大仏殿。

それにこの風景は油絵向きでソフトパステルでは旨くいきそうもなかった。陽も大分傾いたし、僕は中途で投げ出して帰路に着いた。
この後、京奈和道路・京滋バイパスを伝い名神高速に入って直ぐの草津PAに到着。ここで晩食にカツ丼を食った。今夜はここで野宿。明日の予定が未だ立っていないので、この中途半端な位置取りが丁度好いかも。あぁ疲れたァ(>_<) 今日は四月なのに直射日光がきつくそれは暑い日となった。興福寺・五重塔の前で観光客の雑踏にまみれ汗を体中に滲ませながら一心に塔描いたことは、僕の生涯の思い出になる。きっと懐かしく思い出す。 2009年4月12日(日)  朝七時、草津PAは人の動きがもう結構ある。今日何処へ行って絵を描くか、未だ決まってない。黄砂が舞って遠望が利かないので甲信の山の絵には執着がない。やっぱり湖沼の風景か。海っていう選択もある。僕の旅先の食生活は栄養のバランスが悪い。蛋白質と脂質が少ない。野菜はジュースだけ。「ご当地かりんとう」を見つけては買い込み運転中や寝る前についつい手を出す。流浪無宿人生活を実際にしてみると問題点が多い。第一は外食買い食いだけの食生活。健康に直結するだけによくよく考えてみなければ。第二に銭湯が意外に少なくなっている。子供達が小さかったとき家族旅行をして夕方になったら見知らぬ街で銭湯探しをして皆で風呂に浸かったのはもう20年以上も前の話なんだなぁ。生き残っている銭湯も僕が走り抜けるような幹線道路には面していない。風呂付ホテルに泊まろうかとの誘惑に駆られる。第三に着るものも問題。今回僕は着替えも用意せずに飛び出してきたから論外だが、衣類の着替えは清潔だけの問題でない、春秋の写生シーズンは気圧配置・風向きの変化で寒署が極端に切り変わる。昨日の奈良公園では熱中症に罹りそうだった。着替え衣類の用意は大事。 12:12 結局何となくまた余呉湖に舞い戻ってしまったが、風があり湖面がさざ波立って風景の反映というものが全然ない。前景一面に単なるブルーグレイがあるだけのこと。がっかりしたら酷く疲れを覚えたのでひと眠りすることにf(^_^;)そして目覚めたら正午。寝過ぎて頭がボーっとしている。体中汗だらけ、暑いッ!今更何処を目指そうと今日はもう一日絵を描かずに過ごすことが確定したようなもの。これじゃぁ寝ぼけた分、観光客以下 (`´)(/_;) 18:00七尾に到着、「ちびまる子」にぎりぎり間に合ったf(^_^;)。 2009年4月13日(月)  今日も絵を描いてきた。午前10時に出かけて、小松市の木場潟から流れ出す川の畔で描いた。構図に失敗し絵にならなかった。川辺の風景(水と樹と木陰)を描くには繊細な神経が要る。

余呉湖で、桜が咲き春爛漫の風景を描いた

2009年4月8日(水)
19:15「セレナに今日ETC装置を付けた\(^o^)/二女明子の車が京都でお払い箱になって七尾に連れて来られたのでそれから取り出した。これで思いっきり高速を走り回れる。僕はかねての予定通り金曜日の早朝から写生旅行に出かける。事務長はその日も晩遅くまで執務するだろう(-_-;)腹を立てずに務めて下さいm(__)m 天気予報では何とか月曜日辺りまで降らずに持ちそう\(^o^)/金曜日には桜が丁度満開の余呉湖で気に入って目を付けてある風景を描く。土曜日には大転回して長野県か山梨県で描く。どれだけ走っても高速料金は千円\(^o^)/日曜日もその辺でウロウロする。月曜日にスタコラ戻るつもりだけれども、月曜日はETC割引が効かないことを忘れて支払段階で頭に来ないように戒心せねばf(-_-;)平日は極力下道を走ろう。勿論毎夜寝るのは寝袋に納まってセレナの中(*^^)vただより安いものはないッ\(^o^)/今度は敷布団を敷いてもっと寝心地を良くするゾォ(*^^)v
2009年4月9日(木)
女房が何とセレナの中に古敷布団をセットしてくれた(゜o゜)/
15:12 春の陽気(^-^)暖かい(*^^)v花見シーズン\(^o^)/僕は今日木曜日だがこれから出立することにした。花日和を一日たりとも逃したくない(`´)余呉湖のあと、ひょっとしたら「西の湖」(琵琶湖の畔)から大和路を辿るかも。或いは当初の予定通り山梨県の桃源境に向かうかも…行ってみなけりゃ分らんf(-_-;)足の向くまま気の向くままの無宿旅行(^_-)-☆月曜日も僕だけサボルことになるf(*_*;事務長、そのうち怒り出すかも(-_-;)。
20:45 今南条SAでコンビニで仕入れたフィッシュハンバーガーとツナマヨネーズお握りそれと野菜ジュースで晩食を済ませたところf(~_~;)。七尾を出たのが四時半、国道八号線を辿り武生ICから北陸自動車道に入った。初めてETCレーンに入るのでチョット不安だったけれど無事通過。入れたんだからきっと出れるだろうてf(-_-;)。南条SAには八時前に到着。福井県境辺りで赤く真ん丸の夕陽が沈んで行った。綺麗な夕日を見るのは久し振りだったが黄砂でくすんでいた。そう言えば加賀を走っていたとき晴れているのに白山が見えなかった(`´)かなり黄砂がきつい。黄砂が酷いと風景が汚くなる。明日は大丈夫かなぁ(-_-;)。そうそう旅行の出だしは運が好かった。七尾市街を出たら僕の前にトラックがいてそれがえらくノロイので一瞬抜いてやろうかと思ったが急ぐ旅でもなしと大らかに構えて付いて行ったら…警察が張っていた。僕が先頭だったら絶対計測に引っ掛かって頭に来ていた。そうなりゃぁ旅行もどうしたか分かったもんじゃない。こういうのは幸先が好いとは言わないのかなぁ。SAでもうする事がないのでこれから寝袋に納まるf(^_^;)寝袋に入るのが習性になってたりして。
2009年4月10日(金)
7:40 目覚めて見ると南条SAの桜は丁度満開。余呉湖も満開で春爛漫って感じだろうなぁ、期待できる\(^o^)/
21:12 今「みどりの一里塚・木津休憩所」。今日の行程を振り返る。平日一日仕事に頑張る人あれば一日遊び回る人もある…遊び回るのが僕f(-_-;)遊び回るのも結構疲れる(-_-;)余呉湖は桜が満開。風景画を描くのは久し振りだったせいか調子が今一。とにかく全体に絵具を措いて筆を収めた。好い加減に切り上げたのが一時半。

もう一枚描こうと思い木ノ本ICから北陸自動車道に入り安土町の「西の湖」を目指した。彦根ICで下りた。下道の渋滞もあって到着が三時。時間が不足なので取材だけにして自称「日本一の水郷」(観光船の発着場の看板にそう大書)をひと回りしたら五時過ぎ。

下道を走り大和路・奈良を目指した。石山寺の前を通り、瀬田川・木津川を左に見右に見しつつ峠を越えて奈良に近づく。しかしお目当ての道の駅がない(`´)仕方ないのでコンビニで夜食を買いそこの駐車場で野営を試みたがどうも居心地が悪いので飲み食いと服薬だけ済ましてまた当てもなく国道24号線(奈良街道)にさまよい出た。そしてやっと奈良の手前で「みどりの一里塚・木津休憩所」を発見。有難い!と入り込んだという訳。
21:15 入ってみると小っちゃい休憩所で設備はトイレだけ。道の駅の様に立派ではないがとにかく今夜はここで野宿する。周りに居る車は三、四台だけ。寝ていると思しき奴も二台居るf(^_-)。休憩所に駐車したとき東の空低くに満月が輝いていた。今晩の白い満月といい昨夕の赤い夕日といい、真ん丸の天体が西に東に沈み昇る。その本体が科学的に解明されていると言っても、不思議な感じが強くする。月と太陽の間に青い地球が入って三つの天体が引力で引き合っているなんて…神秘を感ずる(゜o゜)/奈良地方は明日混雑して、絵など描いておれないかも…(;一_一)

雨中の写生地探索旅行――余呉湖、安土城、西の湖

二週間ぶち抜き写生旅行記を仕上げたら放心気抜け。ここで一服したらずっとそうなりそうなので気を取り直して執筆にかかる。ぶち抜き旅行の前哨戦について書こう。
2009年4月3日(金)
10:08 今日は好天。僕はこの週末、春の写生旅行第一波に出ようと思っている。ETC装置未装着なので下道(したみち)ばかり走る。千円以上払わされると頭に来そうなので。
 13:54 これから七尾を出て旅に。とりあえず西に向かおうかなと思っているがさてどうなることか。今念頭にあるのは北近江の「余呉湖」。今夜は買って来た寝袋にくるまって車中泊のつもり。
 21:54 下道ばかり走って福井県三国町「東尋坊」に足を伸ばして観光。東尋坊到着は夕方6時半頃で薄暮。



下道を走り続けたのはETC割引が利かないから。その後も下道を走り続けた。宿泊地を南条SAに決めて、武生ICから北陸自動車道に入った。そして入って直ぐの南条SAに入り込んで寝袋の中に納まったf(~_~;)。寝袋は三月に車中泊用に購入したばかりで今日初めて使う。それが結構温かいし納まり具合が好い(*^^)vエンジンを切って寝るつもりだけど、いけそう。真冬に暖房なしでも多分凍死しない。

明朝は敦賀ICで下り、下道を走って余呉湖を目指す。
 23:50 野営しながら未だ起きているf(-_-;)。コンビニで500円のDVD映画を買ってそれをパソコンで見ていた。「ガンヒルの決闘」――カークダグラスとアンソニークィン主演。前に見たことがあったが面白かった。仕事もせんでこんなことしていて好いのかという気もするが、マッ鬱病になるよりも好いのだッぐらいの考え方で好いんじゃあないか。そのうち本物の脳天気になって気楽になる、きっと。
2009年4月4日(土)
6:45 南条SAでお目覚め。曇天。雨は降ってない。雨さえ降らなければ、今日は高い山を描く予定はないから写生に差し支えがない。「花曇り」なんていう言葉もあるくらい。これから食堂で腹ごしらえをして来る。そうそう寝袋は――寒くも暑くもなかった。
 22:54 今日一日の行程。先ず朝、敦賀ICで降りたら料金が1,050円。国道8号線を南下し途中で左折して県道140号線に入る。この道は北陸自動車道に直に沿いながら余呉湖に直結する最短路線。途中一車線交互通行の長い「柳ヶ瀬トンネル」がある。余呉湖は曇天下グレイに沈んだ色相いでこれはこれで渋くてなかなか結構。僕好みの絵になる最高の景色を発見。この景色一つがあるだけで余呉湖は一流の写生地たる資格がある。これが余呉湖一番の風景。水鳥の航跡が可愛い(*^^)v 桜が咲いたらもう最高。

他にもそれなりの景色が散見。



この最高の景色を描こうと道具の用意を完了したら小雨が降り出し水面の美しい反映が雨脚で消されてしまった。幻滅したので写生を断念。
琵琶湖湖岸道路を南下してかねて念願の「安土城」を探索してやろうと決めて出発。能登川でこの辺りと見当を付けて左折。ドンピシャリかねて安土城に比定していた山が果たして然り。その手前で思いがけず一度訪れようと念じていた「西の湖(にしのこ)」に回り逢った。安土城は築城当時琵琶湖の岸辺に在ったそう、それが今は広大な平野・水田が琵琶湖との間を隔て昔日の面影は全くない。往時の地勢の想像もつかない。だがこの「西の湖」はかつての琵琶湖の版図の生き証人。干拓されずに残された広大な湖――そんな感じが深い。一発で目的の安土城に到達。駐車料金500円を喜捨。山に登ろうとするとそこにも料金所があって拝観料500円が追加される、ちょっとムッ(`´)。大手道が一直線に山上に向かって幅広の石段となって伸びている。この石段が普通の石段と違って段差が高く勾配がきつい。それが500段近くある。

「石仏」まで階段石に使われている。突貫工事で近隣の石という石が駆り出されたのだろう。徹底した無神論者だった織田信長の配下の者の仕事らしい。

500円取られたので意地で山頂の天守閣跡地まで登ってやった。心臓のカテーテル治療を5年前に受けたことを度外視してf(-_-;)。


しかしとうとう幻想と同義語だった「安土城」を体感した。やったぁ\(^o^)/という感じ。感想は意外と小規模。僕の直感では「安土城」は織田信長の終(つい)の居城ではなかったろう。天下布武の目的を成就したとき、そのときこそ竟(つい)の居城を別に築いたろう。その場所は、京と堺の中間か。安土山を下山して、気を惹かれていた「西の湖」探索に向かった。水郷だった。絵になる風景を幾つも発見。思いがけない大収穫。


それから琵琶湖大橋を渡って湖西に出て高島市経由で雨の中を敦賀に出た。湖西に渡った時点で帰路を辿る腹になった。余呉湖からずっと雨に祟られていて、その雨が明日(日)も止みそうになかったので。敦賀IC~武生IC間を高速道路利用、1,050円。全然腹が立たずf(^_^;)。あとはひたすら下道を走り七尾に戻って来てしまった。
2009年4月5日(日)
13:20 陽が射しているじゃないか(`´)。窓外は光に溢れている。今日日曜日は雨、の予想が完全に狂った。頭に来た (`´)。余呉湖の桜が未だ咲いていなかったから怒りもマァ中途半端f(-_-;)。桜は来週末が丁度だろう。来週末は山梨県の桃源境に出張する予定だったんだが、余呉湖にするかなぁ(-_-;)。