2017年9月22日金曜日

〇2017-9-21(木)山梨県富士河口湖町「富士御室浅間神社(ふじおむろせんげんじんじゃ)山宮」重文本殿

〇この神社は、文武天皇の時代(699)に富士山に最初に祀られた神社と伝えられている。‥‥現在の本殿は、慶長17年(1612)に富士山2合目に造営されたもの。以来、富士山2合目(旧登山道沿い)にあり積雪風雨・霧等厳しい気象条件の中で度々修理が行われ保存に万全を期してきたが、昭和39年に富士山5合目までスバルラインが開通したことにより旧登山道が荒廃を極めると共に余りにも厳しい自然条件の中で永久保存が至難であるため、昭和48年に現在地(河口湖畔)に移築復元し昭和49年5月に完工し、重要文化財の指定を受けた。‥‥
 ↓拝門と瑞垣。拝門の奥に本殿が鎮座する。注意すべきは鳥居がないこと。即ちこの地は山宮の聖域ではない。里宮の参道脇に居候している。
 〇以下、重文・本殿。注目すべきは瑞垣の高さが低いことと垣の隙間が広いこと。瑞垣はかくあらまほしきかな。本殿を隠すための施設であってはならない。国・都道府県・市町村の補助金を受けて修復された文化財については、断じてそうあってはならない。









〇それにしても風雪に永年耐え抜いてきた神殿には神々しさが備わっている。惚れ惚れする

〇2017-9-21(木)一日晴、残暑が少しぶり返した。朝早くから夕方まで山梨県内を走り回って、神社仏閣の県内重文すべての拝観を完了

朝8時、①韮崎市「武田八幡神社」探訪。重文本殿の撮影に見事に成功
②甲府市「東光寺」の重文仏殿の撮影に見事成功
③山梨市「天神社」の重文本殿の撮影に見事成功
④山梨市「中牧神社」の重文本殿の撮影に爽快に成功。防護柵の高さは胸までに限る
⑤甲州市「恵林寺」の重文四脚門(赤門)の撮影に見事成功。織田軍に武田方が攻め滅ぼされる時「心頭滅却すれば火もまた涼し」と住職が嘯いた寺。豪壮な大寺
⑥甲州市「向嶽寺」の重文中門らしき門を撮影。大寺。重文如き文化財の案内など一々しないらしい
⑦大菩薩峠に近い小菅村に護持されてきた「長作観音堂」を見事撮影。往時より御堂だけ
⑧奥多摩近くの県境から富士河口湖町「富士御室浅間神社」山宮・里宮に参拝。山宮は往時富士山二合目登山道にあったが、五合目までスカイラインが開通して参拝者がいなくなり・厳しい風雪に社殿の護持が覚束ないので、里宮参道の脇に移築されて今日ボクの目に出逢いの機会が与えられた。移築に当たり改修されて素晴らしく美しい本殿となった。柵の高さは頭を越えるが、材木の隙間を広く取ってあるので気持ちよく撮影ができた。里宮本殿の背後に河口湖が広がる
〇今日はすべての探訪重文を気持ち好く撮影できた。午後5時、河口湖発。途中「みどり湖PA」で晩食を摂り、松本ICで下りて安房トンネル・平湯温泉経由で富山に出て帰宅。七尾着10時35分。今回の遠征で、静岡県と山梨県の国宝・重文の神社仏閣建造物をすべて拝観しカメラに収めたことになる。虱潰し重文探訪の旅はここにまで勢力図を拡張した。

2017年9月20日水曜日

〇2017-9-20(水)晴。残暑弱まる。富士の裾野から富士川を遡り主に山梨県の重文を探訪。

朝一番に①静岡県富士宮市「大石寺(たいせきじ)」を再訪。とうとう重文・五重塔を拝観。大塔
②山梨県南部町「最恩寺」重文仏殿。小寺。仏殿は素晴らしい。軒垂木を使ってない
③山梨県身延町「本遠寺(ほんのんじ)」重文本堂・鐘楼。古刹・大寺
④山梨県南アルプス市「長谷寺(ちょうこくじ)」重文本堂。本堂はさすがに古いが、他は田舎の普通の寺
⑤山梨県甲斐市「光照寺」重文薬師堂。薬師堂以外のすべての堂塔伽藍を失っている。無住。それでも墓が多く、御堂が大事に護持されていることは見て取れる
⑥甲府市湯村「塩沢寺(えんたくじ)」重文地蔵堂。石和温泉以外に市街地に湯村と云う温泉街がある。そこに山に懸かって石段で登る傾斜地に地蔵堂がある
⑦甲府市宝「穴切大神社(あなきりだいじんじゃ)」重文本殿。境内は狭い。本殿は小さい。周囲を土塀に囲まれて全貌が見えない、残念な神社。残念すぎて舞殿の撮影を失念
〇今夜の泊りは「道の駅・韮崎」。甲府から20km来た。明朝は、韮崎市の「武田八幡宮」重文本殿から探訪開始。また甲府市に舞戻り、更に周辺の山梨市・甲州市の文化財も探訪する。問題は塩山市の山奥深く・小菅村の「長作観音堂」と、富士河口湖町の「富士御室浅間(ふじおむろせんげん)神社」本殿をどうするか。ここまで回ると、山梨県の神社仏閣重文を全部探訪してしまう。後の楽しみに県境の方は無理せず残しておくか。
                                                                                       

2017年9月19日火曜日

〇2017-9-19(火)晴、残暑。静岡県(遠江・駿河)の未探訪文化財探訪

今日は静岡県に残された未探訪重文建造物を巡った。
①遠江国・浜松市北区「龍潭寺(りょうたんじ)」。大河ドラマ・直虎で有名。庭園が国指定名勝。ふ
②同・袋井市「富士浅間宮」本殿重文。山中の小社。
③同・掛川市「掛川城御殿」重文。前回探訪した時は年末年始の休暇中だった。再訪。
〇日本坂トンネル(左右に二本並ぶ)の手前のPAで午睡。
④駿河国・静岡市葵区「臨済寺」本堂重文。戦国時代、雪斎和尚が住持し今川氏の作戦参謀を務めた。堂塔伽藍の端然とした豪壮な佇まいに圧倒された。到着は午後4時半の閉門ギリギリ。
⑤同・静岡市清水区「霊山寺」重文仁王門。真言宗の古刹。往時は修験道の聖地だったろう。今も車では登れない。33曲りと称される古く狭い石段を登って行く。ボクは登山を無理だと思い諦めて帰ろうとしたが、枝を切った杖が数十本壺に差してあるのを見て気が変わった。杖を突きながら果の知れない石段を曲がりに曲がったら突如仁王門が見えたのには感激。元気が出てさらに登ると鐘楼があり、本堂があった。本堂の背後に本坊もあった。人気はなかった。生活必需品は、ミカン山などに敷設してある物揚げレール装置で揚げるようになっている。足を引き摺りながら山を下りたら午後6時過ぎ。もう暗くなっていた。
〇富士の裾野の「大石寺(たいせきじ)」重文五重塔の探訪を残した。それで明朝に備えて「道の駅・富士川楽座」に泊まることに。ここの展望台からは富士山と富士川の絶景取合せが拝めるらしい。

2017年9月18日月曜日

〇2017-9-18(月・体育の日)三連休を台風でフイにしたがめげずに旅に出た。晴れ

三連休が、台風の襲来でフイになった。最後の休日、台風が東北に去ったので流浪の旅に出た。午前11時七尾発。東海北陸自動車道・東海循環道・東名高速道を伝って豊川市「八幡宮」着が午後345分。想定外の早さ。本殿・重文を拝観。豊橋市「東観音寺」着が同515分。重文・多宝塔を拝観。宿泊地の田原市「道の駅・めっくんはうす」着が615分。ここは渥美半島の付け根から半島にやや入る。再訪。明日は朝一番に浜名湖・浜松市に行く。大河ドラマ「直虎」に出てくる「龍潭寺」から始める。本日の走行距離数360km。夜空に花火が上がる。田原祭の日らしい。旅先で独りで見る花火はもの哀しい。

2017年9月17日日曜日

〇4-15'(土)和歌山県紀の川市かつらぎ町「蓬莱山神社」重文本殿四棟

〇蓬莱山神社には重文本殿が四棟も並んでいる。前夜泊まった道の駅紀の川万葉の里から朝一番に駆けつけた。再訪。




拝殿。拝殿の支度を整えていた若い宮司(禰宜かも)さんが、ボクを文化財研究者と勘違いして色々と説明してくれた。


↓案内書に添付して重文本殿四棟の写真があったので拝借。平成28年に20年ぶりの正遷宮が行われ、社殿はすべて修復されて目の覚める朱塗に一新されている。この写真は修復前のもの。
↓拝廊
↓朱塗の本殿・重文。春日造の社殿が重文本殿で、切妻流造の社殿は末社。この末社は西殿。
↓左は末社西殿




↓これも末社で東殿
↓右は末社東殿





↓末社は東殿
↓末社は西殿
 ↓宝来山・神願寺。蓬莱山神社と境内を接している。神仏習合時代の名残


〇以下は「蓬莱山神社のホームページ」から引用
↓重文本殿四棟
↓本殿
↓末社東殿
↓末社東殿から見た重文本殿四棟
↓末社西殿から見た重文本殿四棟

2017年9月15日金曜日

〇4-2宇治市五ヵ庄「許波多(こはた)神社」重文本殿

〇カーナビ通りに進んでも神社が発見できない。行ったり来たりの末にようやく到達。参道入口が想定外にひっそりと引っ込んでいた。
↓「許波多神社」「式内郷社・許波多神社」




拝殿
拝門
本殿は高い瑞垣にしっかりガードされていて、垣の隙間が細いのでほとんどその姿が見えない。時々こういう事態もあるので諦めて立ち去ろうとしたら盛んに呼び止める人が居る。




夫婦でハイキングしてこの神社に立ち寄った風の老年の女性。遠くから来たんですか?と尋ねられ、石川県と答えるとそれは遠い所からと感心して、この神社が昔愛宕山の上にあったことなど熱心に説明してくれる。そして瑞垣の中に入って本殿を見たいですかと訊く。勿論のこと。彼女は鍵を開けて貰えるように頼んで上げましょうとのこと。私はこの神社の娘ですと明かす。そして頼んでくれたあと夫婦で立去った。待っていると老人が瑞垣の入口の鍵を開けてくれた。訊くと何と隠居した宮司さん。鍵を開けた後瑞垣内にボクを独りにしておいてくれた。ボクは本殿の写真を前後左右から存分に撮った。
↓重文・本殿








瑞垣を出た後も宮司さんは色々の話をしてくれた。宇治市には「木幡(こはた)神社」が数多い。「小幡」と云う地名もある。ここの「許波多(こはた)神社」はそれらの惣社的な地位にあるらしい。元は愛宕山の上に鎮座していたが陸軍から境内を火薬庫用地にと要請されて山を下り現在地に遷座した。ここは御旅所だったらしい。どうやらボクは風体も言動も文化財の研究者然としているらしい。
↓「文政六(癸未)歳九月吉日」
宮司さんが石燈籠に幾つか空いた丸い穴の秘密を明かしてくれた。参拝者が空けたのだが、その謂れの説明を受けたのに忘れてしまったのが遺憾。耳が難聴気味でよく聞こえなかったせいもあるかも。


宮司さんは拝殿の前に戻り、かなたの鳥居の前に止めたハリアーに乗って立ち去るボクの姿が見えなくなるまで見送ってくれていた。